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2018/12/16

12/16巻頭言「生産性とは何か―手段は目的に従属する」

 今年6月「生産性向上特別措置法」が施行された。8月、自民党の杉田議員が『新潮45』において「LGBTは子どもを成さないから生産性がない」と投稿。2004年ホームレス自立支援センター開所に対する住民反対署名。「市の中心部の高価な地所に生産性の低い施設を配置するよりももっと高生産性の施設を考えていただきたい」。2016年神奈川県相模原市。「障がい者は生産性が低い」、「不幸を作り出すことしかできない」を理由に障がい者殺傷事件が起こる。生産性とは何か。
 「経済学において生産活動に対する生産要素(労働・資本など)の寄与度、あるいは資源から付加価値を産み出す際の効率の程度」を生産性と言う(難しいなあ)。より少ない労力や材料からより多くの結果を産むと「生産性が高い」ということになる。苦労が少なく、結果が良いのなら結構なことだが、しかし、生産性は、今や人間を分断する「基準」となっている。
生産性の第一の問題は、生産性が、経済の事柄、つまり「儲かるか」ということに特化されて用いられる点にある。カジノ法案が議論噴出の中成立してしまうのも、やはり「儲かるから」だ。ギャンブル依存症が増えると国会さえ認めている(付帯決議参照)。にも拘わらず人の不幸を踏み台にしてでも経済成長したいと、法は成立した。生産性を経済やお金の問題以外の事柄として語ることはできないのか。儲からないが、いや、逆にお金は減るが人が幸せになった。それを「生産性が高い」と言ったらだめなのか。
 第二の問題は、生産性は「手段」に過ぎないということ。生産性向上は何のためか。なぜ、お金が必要なのか。答えは簡単。「人が幸せになるため」に他ならない。それが「目的」であり、「生産性」はそのための「手段」だ。しかし、いつの間にか「手段」が「目的」になってしまう。生産性向上が「目的」とされる時、そのために人を犠牲にすることも、差別することも平気でやる。ついには「役に立たない奴は殺せ」となる。「手段」の「目的化」は他にもある。原子力発電は、人が幸せになるための「手段」だった。しかし、いつしか原子力発電自体が「目的」となった。さらに、平和を守るために戦争をすると言う。こんな変な話はない。「手段」は常に「目的」に従属していなければならない。だから、平和(いのちを守る)という「目的」のために戦争(殺す)という「手段」は成立し得ない。それでも平和のための戦争と為政者が言うのなら、それは戦争が「目的」となった証拠である。「手段」の従属性を軽んじると、本来の「目的」に対する責任の懈怠(なまけ)は必至となる。繰り返す。生産性は人が幸せになるための「手段」に過ぎない。
 ルカ福音書12章。豊作で倉を建て長年分の食料をため込んだ男が登場する。「これで安心、食え、飲め、楽しめ」と言う男に、神は「愚か者、お前の魂は今夜取られる。それらの物は誰のものになるのか」と問う。幸せになるつもりで富を増やしたこの男は、一番大事なものを見失っていたのだ。

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