2020/06/04
東八幡キリスト教会 主の晩餐式次第
一、主の晩餐にあたっての司式者の祈りと言葉
《 祈祷と司式者の言葉 》
イエス・キリストは、十字架に渡された夜、弟子たちと最後の食事をされました。私たちは、この食事を想起するため主の晩餐を行います。この式において私たちは、イエスの十字架が私たちの罪の贖いのためであったと告白します。
主イエスの十字架は、私たちが負うべき罪の十字架です。イエスは、罪人である私たちをあわれんでくださり、信仰告白の有無にかかわらず、先んじて私たちを愛してくださいました。いかなることがあろうとも、一人として私を愛してくれない時にも、主イエスが伴われ、赦し、愛してくださることを信じます。私たちの死ぬべきからだは、イエス・キリストの十字架と共に滅び、イエス・キリストの復活と共に新たにされました。古きものは過ぎ去り、復活のいのちに生かされたのです。
復活のいのちは、人を愛し、赦す者へとして私たちをよみがえらせます。イエスは、貧しく、虐げられている人々と食事をされました。それは、神の愛の広さと深さを示します。そこには別け隔てや差別はありません。主イエスに赦され、生かされた私たちは、パンを取り、杯を飲むにあたって「自らを吟味」しなければなりません。その愛に応えて生きているかを吟味するのです。社会には未だ抑圧、不公平、貧困があります。私たちは、晩餐において、悔い改めキリストに従う者としての生を決意します。
イエスを主と信じる方、その愛に応えて生きようと思われる方は教会員、未教会員にかかわらずどうぞお取りください。まだそのように思われない方は、そのままでいてください。すべてには、備えられた時があると聖書には書かれております。何よりも大切なのは、恵みが既にすべての人に備えられたという事実です。この恵みに対する応答として、また私たちが共に生きて行く決意としてパンとぶどう酒を受けたいと思います。
二、パンの配餐
《 聖書朗読 》
「私は、主から受けたことをまた、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた。『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。』」 (コリント第一の手紙11章23節~24節)
《 配餐 》
【パン(主イエス・キリストの恵み)を受けたいと希望する会衆は、着席のまま配餐者よりパンを受け取ってください。そうでない方は晩餐式の模様をご覧下さい。】
《 聖書朗読 》
「取って食べよ。これは、わたしのからだである。」
(マタイによる福音書26章26節)
三、ぶどう酒の配餐
《 聖書朗読 》
「食事ののち、杯も同じようにして言われた、『この杯は私の血による新しい契
約である。飲むたびに、私の記念として、このようにおこないなさい。』」
(コリント人への手紙第一の手紙11章25節)
《 配餐 》
【パンと同様にしてお受けください。】
《 配餐終了 》
「みな、この杯から飲め。これは罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である」 ( マタイによる福音書26章27節)
四、派遣と協働の祈り(聖書朗読:キリスト賛歌)
ご覧ください。パンと杯が残っています。私たちは、残されたパンとぶどう酒を心に刻みます。主イエス・キリストは、全世界の人々のために十字架にかかられました。私たちが、先ほど覚えた十字架の恵みは、決して私たちだけのためではなく、すべての者に備えられたのだと告白します。私たちは、この恵みを伝えるために、まだ見ぬ兄弟姉妹の隣人となり、み言葉を宣教し、共に生きるために歩みだします。
私たちは、イエスが主であることを共に告白します。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこと とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有り様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、またあらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」 アーメン
(ピリピ人への手紙2章6節~11節)
2011年6月改定