2022/01/09
1/9巻頭言「朝日WEB論座 クリスマスプレゼントの本当の意味 その④」
訪問型学習支援の現場でスタッフが見た家庭の風景は、ゴミ屋敷であり、「ネグレクト(育児放棄)」であった。掃除が出来ない、子どもの面倒を見ない、お弁当を作らない、学校行事に参加しない。傍から見れば「ネグレクト(育児放棄)」に違いない。だから世間は「親だったらちゃんとすべき」と迫り、それでも上手くできない彼らを「虐待する親」と呼ぶ。
そうではない。彼らには「あるはずのもの」がないのだ。子どもの頃に経験すべきものがすっぽりの抜け落ちた状態で大人になり、親になったのだ。彼らを責めるだけではどうしようもない。
子どもが「のどが渇いた」と泣いている。その前に立つ母親は手にコップを持っている。「なぜ、水を飲ませやらないの。親だろう」と周囲は彼女を叱責する。しかし、よく見れば彼女のコップには何も入っていない。彼女が子どもの頃に受けるべき「愛という水」が入っていないのだ。空っぽのコップ。それが彼らの現実なのだ。
人は誰からもやってもらったことがないことを誰かにすることは難しい。たとえ自分の子どもであってもだ。本来、私たちは前の世代から何かを受け取り、それを次の世代へと継承する。親からだけではない。周囲の大人、あるいは地域や社会からいろいろもらって大人になる。時が来れば次へと渡す。これをNPO法人抱樸では「社会的相続」と呼んでいる。相続と言っても「お金(遺産)」だけではない。遊んでもらった経験、勉強を教えてもらった経験、お弁当を作ってもらった経験、旅行に行った経験、そしてクリスマスを楽しんだ経験。そういうことが世代を超えて相続されていく。
しかし、その「相続」から排除されてきた子どもたちがいる。それが「あるはずのものがない」親たちの現実である。だから簡単に「虐待する親」とは呼べないと私は思う。
時折、「ホームレス支援をなぜ始めたのか」「なぜ、三〇年もやり続けられるのか」などの質問を受けることがある。私はなぜホームレスの支援をすることが出来たのだろうか。答えは単純だ。「かつて、もらったから」だと思う。
私の父は経済成長期のサラリーマンだった。日々忙しくしていたが、クリスマスイブは必ず早く帰宅し家族と過ごした。丹前(冬用のきもの)を着た父が(ちなみにわが家ではパパと一時期呼称していた)、鯨のベーコンで一杯やっている。クリスマスイブには、すき焼きとクリスマスケーキが準備された。鍋奉行の父が仕切る。
私たち子どもは、すき焼きが出来上がるのを、今か今かと待っている。すると父が、「知志、玄関でガタガタって音がしたぞ。見ておいで」と言い出す。そう、決まってそう言うのだ。行ってみると何もない。「何もなかったよ」と告げ、食事が再開する。
つづく