2024/12/01
12/1巻頭言「死者はどこにいるのか」
2024年度の召天者祈念礼拝を迎えた。この教会に来て三十数年となる。多くの人と出会い、また多くの人を神の元へと見送った。教会で出会った方、路上で出会った方、地域の方。会堂の納骨室には250名を超える方々が記念されている。彼らはどこに行ったのだろか。
聖書には「肉体から離れて主と共に住む」(第二コリント5章8節)とある。人は死ねば「天国(神の国)」に行く。地上の旅を終え人は神の元へと召される。クリスチャンであるとか無いとかは関係ない。
さらにイエスは「神の国は実にあなたがたのただ中にある」(ルカ福音書12章21節)という。神の国が私たちの中にあるのなら、死んだ人々は依然として私たちと共にいることになる。彼らは「私たちの中」で生き続けている。
いずれ僕も死ぬ。僕も神の国へと召される。しかし、僕は案外あなたの近くに、いや、あなたの中に居続けているのかも知れない。少々、いや、大いに迷惑かも知れないが。それが「出会う」ということだし、聖書の言う「復活」という事かも知れない。
「質量保存の法則」というのを学校で習った。化学反応において、反応前の物質の全質量と反応後に生成した物質の全質量とは等しいという法則だ。形は変われども全質量は変わらない。そういうことならば、肉体は滅び荼毘に付されても、僕の身体(を構成していた物質)は形を変えてこの世のどこかに存在していることになる。ひょっとすると物質だけではなく「僕そのもの」も形を変えてどこかで存在し続けているのかも知れない。
先日、天文物理学者のBossB(ボスB)さんと対談した。「情報は保存されるというのは量子の世界で犯されてはいけない基本原則」だと彼女は言う。著書「宇宙思考」には、こんな一文がある。「情報が保存されるということは、あなたの愛するお母さんが死に去り、灰になった後も、お母さんの生き様のすべてがこの宇宙に情報として残るという事です。あなたの生き様も全て、今も死後も宇宙に残ります。そしてあなたとあなたのお母さんのもつれ絡んだ情報も、いつまでも、宇宙のどこかに残るのです。いつまでも繋がっていることでしょう。これが愛かな?」(205頁)。なんだか泣けてくる。
復活信仰は、キリスト教にとって最も大切な教義だと言える。しかし、それがなんだか良く解らない。でも、聖書にしても、物理学にしても、天文物理学にしても人の存在や情報が絶えることなく存在し続けるのだという。そして、天文物理学者はそれを「愛」だという。
再び聖書に戻る。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13章13節)。たとえ死んでも生き続ける。それを「愛」と聖書は言う。今日は、愛した人々を心に刻む日。今も彼らが私たちの中で生き続けていることを思う日。愛の日。