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2025/02/02

2/2巻頭言 2025年新年礼拝宣教「はとであり、へびである」 最終回

 聖書が描く罪の本質は「盗み」ではありません。「神のようになる」、つまり「自己神格化」にあります。神によって創られた「被造物」であり、神によって「生かされて生きる者」に過ぎない私たち人がその事実を否定し「善悪を知る者」、すなわち神になることを求めることです。甘言をもって悪は忍び寄る。それは一見素晴らしことのように映ります。残念ながら私たちの先祖は「隠された悪」を見抜くことが出来なかったわけです。
 イエスの時代の人々も、私たちも、聖書を通じて、アダムとエバの現実とへびの賢さを知っているわけです。イエスが「へびのように賢く」と言う時、人々の中には創世記三章のへびの一件が思い浮かんだと思います。
 だからイエスが言いたかった「へびのように賢く」は単純には受け取ることができません。そのままだと「へびのようにずる賢く人を騙してでも生きていきなさい」という事になってしまいますから。そうではなく、「賢いヘビに誘惑された」という事実、その弱き人の本質を踏まえて生きろということだと理解したいと思います。人は時にへびの賢さに翻弄される。その自覚が必要であること。アダムとエバがあの誘惑、つまり悪を「注意深く拒む」ことは出来なかったという事実を踏まえて生きていくことが必要だと私は理解したいと思います。
 美しいものを美しいと感じる「はとのような素直さ」と共に「蛇の賢さ」の誘惑に陥った者として、「隠れた悪」を見抜き、それを拒む「本当の賢さ」を持って生きる。さらに自分の中に「へびの賢さ」に惹かれてしまう弱さがあること。あるいは私たち自身の中に「かくされた悪」が内在していることに気づき、それを「注意深くこばむ」。それが「ヘビの賢さ」を身に着ける本当の意味であり、それこそが私たちが生きる上で「あるべき賢さ」なのだと思います。
 2025年も厳しい時代となると思われます。しかし、どんな厳しさの中でもはとのように素直に美しいものと出会い感動したいと思います。一方、へびの賢さに誘惑されてしまう危うさを持つ人間として「かくされた悪をこばむ本当の賢さ」を身に着けたいと思います。今年が平和で、助け合い、分かち合う豊かな年でありますように祈りたいと思います。

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