2016/06/12
救いからの解放
現在日本のキリスト教は衰退の一途をたどっている。二〇一三年版「宗教年鑑」(文化庁)によるとキリスト教系の宗教団体数は九二七七件。信者数は一九〇万八四七九人。前年比で一万二四一三人減。このような傾向は、キリスト教に限ったことでもない。仏教界においても「寺院消滅」という深刻な事態に直面している。一方で私立学校でキリスト教主義の学校は、全体の六割を占めており西南学院のように「成長」している学校もあるが、それがキリスト教人口増につながらない。キリスト教主義学校に有名私学、有名進学校が多いことも特徴で、このようなあり方と聖書の福音がどう整合しているかを問う時に来ている。西南学院の創立百年の時、卒業生の中村哲さんが「単に羽振りのいい学校にならないように」と釘を刺されたが、時代に迎合することで人気が出ても、自らのアイデンティティを見失った者はいずれ彷徨し滅びるだろう。
なぜ人々は教会に来ないのか。なぜ力を失ったのか。旧態依然の教会のスタイルやわかりにくい説教、教会の中でしか通用しない言葉や概念、具体的な相談に乗る手段も力量がなく「心の問題」に限定して(あきらめて)いるなど、いろいろな要因が思い浮かぶ。
しかし、私が思う最も大きな要因は、キリスト教会が語ってきた「救い」の問題である。すなわち教会が伝道してきた「救済論」が傲慢でエゴイスティック、さらに差別的であったからだと思うのだ。少々否定的過ぎるとお叱りを受けるかも知れないが、当事者の最たる者である牧師としては、これぐらい自己吟味しなければならないと思っている。伝統的に教会は、「信じる者は救われる」、あるいは「洗礼を受け、キリスト者になった人は救われる」と教えてきた。「クリスチャンは救われているが、ノンクリスチャンは救われていない。だから一刻も早くクリスチャンになりなさい」と教会は説いてきた。これは差別だと思う。家族の中で、クリスチャンは天国に行き、それ以外は地獄に行く。そんな酷い話のどこが「救い」なのだろう。私自身を救ってくれたことには感謝するが、かといって私の愛する家族を地獄に落とす神などというものは神でもなんでもない。教会には病床洗礼という伝統があるが、それは「死ぬ前に洗礼を受けて天国へ」という切迫感の現れだ。「間に合わない」ことが多いが、「家族を救えなかった」と負い目に感じてきたクリスチャンは少なくない。伝道は、既に救われて天国を約束されたと自認する人が、まだ救われていない人に救いを教えることを意味した。「無知蒙昧」な人々に真理を諭すという啓蒙主義の傲慢さが見え隠れする。そのような従来教会が語ってきた「救い」自体がキリスト者と教会を呪縛してきた。この差別性に気づかぬまま伝道を続けることによって、ますますキリスト教はジリ貧になるのではないかと危惧する。教会は「救い」から解放されなければならない。
イエスは言う。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(いずれもマタイ福音書)。東八幡キリスト教会の告白する神様は、そんなケチなお方ではない。全員既に救われています。ご安心ください。