2022/04/24
4/21巻頭言「紫蘭の集い-ともかく一緒」
「先生、庭の紫蘭が咲いたよ」と由利さんが教えてくれた。見に行くと紫蘭の花がいくつも咲いていた。この教会がまだ旧会堂で礼拝をしていたころ。表通りから裏通りに抜ける通路、サイドルームの窓の下あたりに「紫蘭の花」が咲いていた。小さく目立たない花。でも、優しい気持ちになれる、そんな花だった。新教会堂建築が始まった時、紫蘭の花は一部移植され生き延びた。その「まつえ」が咲いたのだ。
1990年私たち夫婦は東八幡キリスト教会に赴任した。その四年前、伊豆の天城山荘で開催された「全国青年大会」で二人は出会った。青年だったこともあり「教会に赴任したら青年伝道をやろう」と語り合った。しかし、肝心の教会からの招へいが来ない。どうも関西時代に「やんちゃ」、まあやんちゃと言っても釜ヶ崎で運動まがいのことをやっていたのと伝統的な教会の在り方に異を唱えていた程度のことだが、どうもそれが祟ったらしく他の神学生(牧師候補)には招へいの話しが届きはじめても僕の所には来なかった。ようやく北九州の東八幡教会という教会からオファーが届いた。1990年私たち夫婦はこの教会に赴任した。着任して分かったことは、僕らが一番若かったということ。青年はひとりもいなかった。僕らの上は40代の内山夫妻。その上は60代。平均年齢63歳。それが当時の東八幡教会だった。
当時の教会は、すべてがゆったりしていた。礼拝後、サイドルームでお茶のみ話しが始まる。長い時には4時間に及んだ。そんなのんびりした時間が心地よかった。するとこんな声が聞こえてきた。「いつも一人で黙って食事をしているのよ」、「あんまりさびしいからテレビの人と話しながら食事をするの」。「だから、礼拝後にみんなと食べるうどんがうれしいのよ」。ならばと月2回、金曜日の午前11時から聖書の学びを少々やって、その後ごはんを食べる会を持つことにした。聖書の話し・・・まじめにやったと思うがあまり記憶にない。それよりも一緒に食事をしたこと。美味しいものを食べようとドライブに出かけたことを覚えている。
毎年、2月末は三岳梅林に出かけた。皆が梅林を散策する間、足が悪かった末子さんはベンチで待っていた。僕も付き合い座っていると末子さんがワンカップを二つカバンから出す。僕はおでんを買いに走る。そして宴会が始まる。二人とも昼間からいい気分。しばらくして散策組が戻って来た。「さて、帰るか」と歩き出す。突然、横にいたはずの末子さんが消えた。「せんせえー助けて」との声が道下の畑からした。覗くと末子さんがあおむけで笑っていた。みんなで末子さんを引っ張り上げ大笑い。
何がどうしたということでもない。高尚な教えが述べられたわけでもない。ただ一緒にいて、一緒に食べて、一緒に笑う。僕にとって宝物のような時間だった。25歳の右も左もわからない、(少々「左の牧師」と言われていたなあ)僕は、「せんせえー助けて」の声をかけていただいているうちに牧師に成らせてもらった気がする。
その集会が始まった春、サイドルームの窓の下には紫蘭の花が咲いていた。集会は「紫蘭の集い」と命名された。