2019/04/28
4/28巻頭言「霊性は私の予測を裏切ってなお希望である」
今年の牧師方針として、昨年に引き続き霊性ということを提案した。主に次のようなことを提起した。「霊性」とは世界観である。世界と歴史を神あるいはキリストとの関係で理解するということである。「霊」とは神の働きを指し、それを前提にすべてを理解しようとする。「神も仏もない」と言わざるを得ない現実を前に、なおも「霊性」をもって世界を見直すならば、私達は絶望しない。神は、世界を愛しておられるからだ。だから、何があっても大丈夫だ。イエスは、「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイによる福音書七章)と言った。私には「悪」と思える出来事さえも神と無縁ではない。しかも、これは、クリスチャンに限定された事柄ではなく、すべての人に与えられている「事実」であると信じる。そのような世界の捉え方が「霊性」である。
その後も「霊性」について考えている。さらに課題について補足したい。霊性を「神は私達を愛していてくださっている事実として信じること」としたのだが、そこにおける「神の愛」や「みこころ」の「超越性」について私達は十分に理解する必要がある。つまり、「神がこの世界を愛していてくださるから大丈夫」と信じることと、「私の思い(希望)が成就すること」とは必ずしも一致しない。霊性とは、私の期待が叶うことを信じることではなく、「みこころが地になりますように」と祈ること。みこころは、私達が理解できようが、できまいが、私にする神の愛なのだと信じることである。
「ナルニア物語」で有名なC・S・ルイスはこう言っている。「実存するものは、たいてい、われわれの予測し得なかったものである。これは事実であり、また私がキリスト教を信じる理由の一つである。キリスト教はわれわれの予測し得なかった宗教である。もしキリスト教が、私たちが常に予測してきたような宇宙をわれわれに提示するに留まったなら、それはわれわれ人間がでっち上げたものだと私はすぐに感じ取ったことだろう。ところが実際は、誰かがでっち上げたと思われるようなそんな代物ではなく、ほんものに特有なその妙な癖とでもいうべきものを持っているのである。」(『キリスト教の精髄』80頁)
霊性は、私達の予測をはるかに超える希望である。それゆえに、私達の期待を裏切ることさえある。私達の予測してきた宇宙や世界(観)をはるかに超える希望なのである。それゆえに、私達は自らの思いを超えて「信じる」のである。