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2017/05/22

ひとりから―感情をしくみに変える

すべては「ひとり」との出会いからはじまる。
ある人は公園の片隅で誰に看取られることなく亡くなった。ある人は何度も不調を訴えたが「入院の必要はない」と断られ、救急搬送された時にはすべて手遅れだった。何ら助けもないままに路上で亡くなったその人は「遺体解剖保存法」に基づき「勝手に」解剖された。医学の発展のためだという。ある人は認知症があり僕は支援の手をこまねいた。その人は半年後自ら命を絶たった。「僕が殺した」。その思いは今も消えない。
出会いの中で僕の感情は揺れ動く。怒り、悲しみ、自己嫌悪、やるせなさ、そして喜び。最初の頃、感情のままに行動した。何より行政に対する怒りは深かった。「殺人行政」と書いたプラカードを掲げ野宿当事者数十名と役所に押し掛けた。自宅の電話口、役人に罵声を浴びせ続ける僕の姿に「この人大丈夫だろうか」と妻は思った。ともかく路上死の現実はゆるせなかった。僕は感情をぶつけ続け、他者(行政)も自分もゆるせなかった。
企業や一般の事業所ならば、マーケッティングがあり事業計画からスタートできる。だが、僕らは「ひとり」との出会いにこだわった。出会い、感じ、「出会った責任」として感情をぶつけ続けた。そして僕らは問題を抱えた。
「出会い」が感情に終始する。それが問題だった。炊き出し、相談、居住支援、就労支援・・・ボランティアとして「やれること」をやり続けたが、感情、特に怒りは消化されず「怨念」となった。行政との対立はさらに深まった。
そして一〇年が経った。行政との闘いに疲れ果てた僕らは「感情をしくみに変える」ことにたどり着く。九州初のホームレス支援施設を開所させたのは活動開始一二年目の春。二年後、行政との協働が始まった。加速度的に自立は進んだ。
感情を感情に終わらせない。感情をしくみに変える。それがNPOやキリスト教社会事業だと思う。感情を感情に終わらせる人は、かつての僕のように「敵」を創り、ただ罵声を浴びせ続ける。確かに民衆の怒りには根拠がある。それを蔑ろにはできない。しかし、その怒りを感情で終わらせてはいけない。「ひとり」との出会いが感情を動かすし、それを根拠としてしくみを創る。感情(根拠)なきしくみは単なる「事業」だが、出会いから生まれる感情を根拠とする事業は社会事業となる。「感情の社会化」とでもいうべきか。「ひとり」との出会いから始まり、出会いに責任を感じた者たちが、その「感情」ゆえに「しくみ」を創り出せる。
イエスは多くの教えを説き、神の国の到来を告げた。だがイエスは団体や事業を興さなかった。「ひとり」と向き合い、悩み、嘆き、憐み、声をかけ続けた。長血の女がいた。三十年以上病に苦しんだ男がいた。裏切る弟子がいた。イエスの前には常に「ひとり」の人がいた。
イエスの十字架の後、弟子たちはその出会いとそれに掛かる感情をしくみに変えた。キリスト教会の始まりである。教会もNPOもひとりとの出会いと感情を原点としている。しかし現在、両者ともにこの原点から遠ざかりつつある。「ひとり」と出会うこと。感じること。そして、その「感情をしくみに変える」こと。原点に立ち返るべき時が来ているように思う。

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