2019/06/02
6/2巻頭言「鴨川さん逝く」
鴨川政人さんと出会ったのは1994年ごろ。鴨川さんは、当時の野宿者の中では若く、仕事と野宿を行き来されていた。出張仕事に行けば、必ず旅先から電話があった。ある日、土産片手にひょっこり帰ってこられた。鴨川さん48歳、僕29歳。
1996年。警察が「浮浪者リスト」を作っているとの情報が入った。警察官が野宿者の指紋を採取し、氏名や出身地などを記録して回っているというのだ。「野宿者を犯罪者予備軍扱いしている」と私達は激怒した。しかし、鴨川さんの反応は違っていた。「リストをつくることの問題は感じるが自分が死ぬと無縁仏になる。身元不明のまま死ぬよりも分かる形で死にたい。犬や猫ではあるまいし、ああこんな人がいたな、あああの人が死んだなという、自分が生きた証拠がない。誰が死んだか分かるのとわからんのとはえらい違う。私はなんのために生きてきたのか。善かれあしかれ生きてきたのだから誰かに見取られたい。見取るのは宗教の役割だ。警察ではないところで、やはりリストみたいなものを作ってほしい」。鴨川さんの言葉は、孤独の淵にたたずむ人の思いを表していた。私の中には、このことばが深く刻まれ、これにどう応えるかの模索が始まった。
その後、鴨川さんの言葉は「受肉」していく。2003年日本初のホームレス者のデータベースが完成する。本人合意の上、出会った日から看取った日まで、すべてが記録される。葬儀を担当する度に、牧師役の私の手元は「その方の全記録」が届けられる。現在4,000人以上のデータが保存され、日々更新されている。葬儀では「あの人が死んだ」と明確に語ることが出来るようになった。「生きた証拠」が残されたのだ。さらに2014年東八幡教会は「軒の教会」を完成させた。新教会堂の奥には「記念室(納骨堂)」が設置された。「見取る」という「宗教の役割」を果たせるようになった。
今年で出会いから26年。鴨川さんは71歳となり、僕は55歳となった。5月26日、鴨川さん危篤の連絡を受け病院に駆け付けた。看護師さんから「奥田先生ですね」と声をかけられた。「鴨川さんがいつも奥田先生はどうしているだろうか」と言っていたという。忙しさにかまけてお見舞いに行けない日々が続いていた。申し訳なく、恥ずかしい思いになった。危篤の鴨川さんに語りかけたが、もう返事は無かった。翌日、鴨川さんは召された。
「鴨川さん。約束通りあなたのお葬式をやらせてもらいましたよ。あなたの記録は200ページにも及びました。ほかの誰でもない、僕が出会い一緒に生きた『鴨川政人さんの記録』です。お葬式には、あなたを知る人々が駆け付け涙を流していました。あなたは『身元不明』でもなければ、『犬でも猫でも』ありません。鴨川さんに言われたことを僕らなりにまじめに考えてきました。まだまだ十分ではありませんが、『あなたをあなたとして送れたこと』を少しうれしく思います。僕ら頑張ったでしょ。あなたが教えてくれたのです。僕は奥田知志としてもう少し生きたいと思います。僕を僕として覚えていてください。ありがとう。またお会いましょう。」