2019/07/21
7/21巻頭言「最後の創造」
創世記1章には7日間で天地が創造されたことが記されている。1日目天地、光、昼、夜。2日目空(天)。3日目大地、海、植物。4日目太陽、月、星。5日目魚、鳥。そして、6日目に神は、獣と家畜。そして7日目、神は休んだ。天地創造において人はいつ創造されたか。人の創造は、第6日目、つまり最後の被造物として人は登場した。なぜ、人が最後に創造されたのか。それを考えることが、人とは何かを考えることになる。
「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。」(創世記1章26節以下)
人は、神のかたちをいただいた唯一の被造物である。神は、その人に「地を従わせよ。(中略)すべての生き物を治めよ」を宣言する。この言葉は、いかにも人がすべての被造物の支配者であるかのような印象を与える。その結果キリスト教、あるいはキリスト教文明は、人が世界を治め支配して良いとの認識を持つようになった。キリスト教文明が、環境破壊に無頓着なのはこのことが影響している。
しかし、本当に神は、人に全権委任をされたのか。人が最後に造られたことは、支配者として立てられたことを意味しない。人が最後に創造された意味は、「人は最後にしか登場できなかったから」だ。人が最後の被造物であるということは、人が生きるためには6日に及ぶ、すべての被造物が備えられる必然があったということに過ぎない。つまり、太陽や水や植物、他の動物など、あらゆるものが存在して初めて人は生きていける存在なのだ。人は独りでは生きていけない。この事実を示したのが6日目、つまり最後の創造の意味である。
人の本質が脆弱であるということが、最後の創造の意味であるなら、人を「支配者」、あるいは「強者」として理解することはできない。「治めよ」「従わせよ」のことばの本意は、「守りなさい」「大切にしなさい」である。現在のように、好き勝手に開発し大地を放射能で汚染しているようでは、人(人類)は生き延びることは不可能だ。人は、本質的に助けてもらわないと生きていけない。この事実を正直に認めることが信仰者として生きるということだ。「助けて」と言えることが人の本質であり、「助けて」と相互に言いながら生きていくことが人としての暮らしそのものなのだ。