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2022/02/27

2/27巻頭言 「田島良昭さん 追悼文」

(田島良昭さんは、長崎南高愛隣会の創設者である。昨年八月七六歳で召された。これは偲ぶ会に寄せた私の追悼文である。)
 「長崎の田島です」。落ち着いた声の男性はそう語られました。うかつにも私は「長崎の田島さん」を知りませんでした。その後、電話の主が長崎南高愛隣会理事長田島良昭さんであることを知りました。
その年の1月下関駅放火事件が起きていました。逮捕されたのはFさん当時74歳の男性で、出所後8日目の犯行でした。これまで10回の放火事件を起こし、その度に「知的障害」が認められるも福祉につながることもないまま11回目の事件となっていました。
犯行動機は「刑務所に戻りたかった」。居場所がなかった彼が、事件直前まで北九州市にいたことを報道で知り「申し訳ない思い」で彼を訪ね、引受人になりました。田島さんは、この事件で私のことを知ったとのことでした。その日、田島さんは「自分は障害者福祉に生涯をささげてきたにもかかわらず、触法障害者のことを知りませんでした」と語られ「大変申し訳ないことです」と語られたのです。そして厚労省の科研事業に誘ってくださいました。私は「参加します」と即答しました。
「人を助けたい」「困っている人のために何かしたい」。そういう思いも悪くはないと思います。しかし、田島さんの根底には「申し訳ない」という罪の意識があったように感じました。福祉は施しではなく、社会の責任であり、出会った責任だと私は考えてきました。
田島さんとお話しをしていると問題意識と共に責任意識を感じることがしばしばありました。それらがご自身の「申し訳ない」という思いに裏付けられている。本当の福祉家とはこのような方なのだと思いました。
抱樸が社会福祉法人設立の準備を始めた時、田島さんはそれを喜びつつ「奥田さん、これからはNPOのように自由にはいかない。身を割かれるようなことになる。だけどおやりなさい」と背中を押してくださいました。ご自身、身を割きながらやってこられたのだと感じました。まだまだ覚悟が足りませんが、田島さんの後ろを歩んでゆきたいと思います。
最後に、北九州に来てくださった時、ホームレスから自立した方々の新年会に参加下さいました。あの日の田島さんの笑顔が忘れられません。本当に現場の人なのだと思いました。それ以降、「抱樸の働きは、奥田さんではなく連れ合いの伴子さんが担っている。北九州に行ったら奥田さんではなく伴子さんとお会いなさい」といろいろな人に声をかけておられました。いや、本当にその通りです。そういうまなざしの田島さんを私は愛し尊敬したのでした。
早いお別れで、悲しく、戸惑っています。もっと、もっと、教えていただきたかった。もっともっと、相談に乗っていただきたかった。でも、がんばります。私は、自分の「申し訳なさ」に正直に向かい合い、身を割かれたいと思います。いずれ天国でお会いします。それまで、さようなら。本当にありがとうございました。

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