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2017/08/06

四十九日―忌明けということ

先日親父の四十九日の法要があった。その折には多くの方々にお気遣いいただいた。お袋は少しづつ落ち着きを取り戻しつつあるが寂しそうであることは否めない。
奥田の実家は浄土宗のお寺を菩提寺に持つ。今回の葬式とその後の法要は浄土宗のご住職が担ってくださった。「葬式仏教」などと言うが、今回はその「葬式仏教」を堪能させていただいた。
一般的に仏教では亡くなってから七日ごとに法事・法要があり、四十九日までの法要を『追善法要』と言う。この間七日ごとに閻魔大王による裁きが行なわれる。極楽浄土に行けるかどうかの判定が下されるのが四十九日目。それが決まれば、『忌明け』(喪に服する期間が終わる)となる。遺族は七日ごとの裁きの日に合わせて法要を行ない故人が成仏できるように祈る。なるほど。でも死んでから、しかも遺族の供養次第で極楽地獄が決まるというのは嫌だな。もはや「無縁社会」と言われる時代となった。弔ってほしくても、弔う人がいない。そういう人は四十九日を待たず全員地獄行き決定となる。
宗教者ならば、まさにそんな人こそ救ってやらねばなるまい。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と親鸞さんは教えた。自力で何とかできる人(善人)はまあいいとして、他力に頼るしかない人(悪人)は、仏の慈悲で何とかしてもらおうという事だ。だったらみんな極楽に行ける。一安心、ああ、よかった。
「遺族の供養次第」とお坊さんに言われると、お布施にも力が入る。東八幡教会の場合は、死ぬことを『召される』という。誰に召されるのか。神様である。生前の数々の悪事はどうなるのか。イエス・キリストの十字架の贖いによってすでに赦されている。だから人は最期、たとえどんな死に方をしても神に召されて天国に行く。親鸞が言う「往生をとぐ」である。
少々「葬式仏教」の悪口になったが、一方で今回「四十九日」を体験して牧師(宗教者)として反省した点があった。それは四十九日の間、七日毎の法要は亡くなった人の「追善」というよりも、残された遺族のための「グリーフケア」としての意味が大きいという事である。グリーフケアとは、「悲嘆ケア」とも呼ばれ、大切な人を亡くし大きな悲嘆(グリーフ)に襲われている人に対するサポートをいう。これは、キリスト教においても重視されており、教会の場合、死者の成仏は問題ではないので、主にこの部分に注力される。四十九日は、愛する者とお別れする過程(プロセス)なのだ。そして何よりも四十九日目の意味が重要で、ご住職はその日こう語られた、「今日で四十九日です。忌明けと言います。今日限りで故人に合わせた暮らしは終わり。明日から元の日常に戻ってください」。この宣言は重要だ。教会は、死者の成仏が問題ではなく、遺族に合わせたケアを中心に考える分、このタイミング、すなわち「忌明け」のチャンスを逃す危険がある。いつまでも悲しみに浸り続けることはケアではない。「はい、今日で終わり」。これは救いだ。イエスが十字架で死んで五〇日が経った時、弟子たちに聖霊が下り「教会活動」が始まった。聖霊降誕(ペンテコステ)である。それまで復活のイエスは、何度か弟子たちの前に現れた。そしてついに帰天。そのあと五〇日目に弟子たちは「忌明け」を迎えた。葬式仏教が到達した「服喪―四十九日」は、悲しむ人の心に沿った極めて優れた習わしだと思う。南無阿弥陀仏。

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