2023/07/30
7/30巻頭言 「『家族だから』から『だから家族』への転換 その②」
単身化が進み、生涯未婚率も上昇する中で「身内の責任」では対応できない事態となりつつある。つまり「家族だからやって当然」と言ってきたが「それは無理」と家族が言った場合にどうするのか。それを真剣に考えねばならない時代なのだ。
抱樸が出会った人の多くが「家族がいない」、「すでに縁が切れている」状態だった。象徴的だったのが最期の場面。危篤になっても、亡くなっても家族は来なかった。たとえ連絡がついたとしても「もう関われない」との返事が戻ってきた。「家族だから葬式をするべき」は通用しなかった。同様に「お母さんだから弁当を作る」、「お父さんだから会社で働く」。そういうことを言っても「できない」家族がいた。「家族だから」はもはや常識ではない。
そんな現実の中で抱樸は「家族を機能で捉える」ことにした。家族の機能を家族以外の赤の他人が担うのだ。例えば葬儀は家族機能の最たるものだ。だから家族がいないと葬儀が出せない。動物の中で人だけが弔う。だから弔い無き死は「非人間的」と言わざるを得ない。これは大変寂しいことであると同時に社会問題にもなっている。弔う人の不在が大家の「部屋を貸せない理由」となっているのだ。「住宅確保要配慮者問題」の中心はこの現実でもある。
抱樸では子どもまるごと支援が始まった同年「地域互助会」を発足させた。互助会では、様々な支え合いの仕組みや交流の企画と共に「互助会葬」がなされてきた。身内が来なくても互助会が葬式を出すのだ。そして葬儀という機能を担った人、つまり「葬式に出た人が家族」なのだ。「家族だから」から「だから家族」への転換を図った。「なんちゃって家族」の誕生である。
「家族だからお弁当を作る」のではない。「お弁当を作った人を家族と言う」。結果、お母さんが三〇人いてもいいし、お父さんが20人いてもいいことになる。このような家族機能の社会化は、今後も日本社会や地域共生社会を模索する上で重要なポイントとなる。
教会もまた、赤の他人を「家族」「兄弟姉妹」「神の家族」と言ってきた。多くの場合、対象者を「クリスチャン」に限定してきたのでこれは「閉鎖的な家族」だった。しかし、共に生きている人を家族と呼ぶのなら、神の家族はだれでもなれることになる。クリスチャンかどうかは関係ないし、クリスチャンだから~するべきということもなくなる。イエスは十字架で死ぬ直前、愛弟子を自分の母親に紹介した。「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ福音書19章)。弟子はその日からイエスの母を自分の母とした。赤の他人が家族になる。これが聖書の伝える福音(良い知らせ)なのである。
「家族だから」から「だから家族」への転換は、今日の社会にとって大きなテーマであるし、希望のまちは、それを体現する大いなる実験となる。