2024/05/19
5/19巻頭言「僕が生きているということ」
先日、関東学院大学で講演をした。対象は一年生だったが、その他にも合流してくださったゼミの学生、一般の方々、そして星の下の現地メンバーなどが聞いて下さった。
講演後の質疑の時、「奥田さんは自殺を考えたことはないのですか」との質問を受けた。一瞬、どうしようかと思った。正直、「消えてなくなりたい」とか「全部置いて逃げ出したい」と思ったことは何度もある。だが、幸いなことに「死にたい」と思ったことはない。僕が極端に臆病だからかも知れない。「死んではいけない」というキリスト教的な強い宗教心が影響しているのかも知れない。ただ、キリスト教会は「自殺は罪」と教えてきたが、正確には「自殺『も』罪」と言うべきだと思う。「キリストの贖いによって私は赦されました」と声高に「伝道」する人が「自殺は罪」とまるで「赦されない」かのようなことを言う。これはおかしい。その人の罪が赦されるのなら自殺者の罪も赦される。だから「自殺『も』罪」なのであり当然キリストの贖いの対象からは外れない。そうでないと困る。だから自殺をした人も全員天国で再会することになる。
僕が感じてきた「消えてしまいたい」という思いは極めて「自殺」に近かったと思う。そう思わざるを得ない時が人生には何度かある。だが、なぜか僕は「自殺」しなかった。なぜだろう。質問を受けながらそんなことを考えていた。
牧師になって34年。困窮者支援は18歳からだから40年以上。その中で何人もの人が「自殺」した。そんな最期を迎えた人の葬儀をしたことも何度もある。「悔しい」。「解らない」。「僕は何をしたのか、しなかったのか」。そんな思いで見送る。質問の答えを探りながら、何人もの顔が浮かんだ。いいかげんに生きた人はいない。病気だったり、抱えきれない苦労を抱えていたり。残された家族は大変だった。天国で本人たちに言いたいことも山ほどある。だが、そんな彼らの気持ちも少しだけわかる。
だが、僕は自殺しなかった。すべての人とは言わないが、僕の中には確かに可能性があったと思う。だが、死ななかった。なぜだろう。学生さんのまっすぐな問いにどう答えることができるか。正直、その場から逃げ出したい思いになった。
僕は、こんな風に答えた。「僕の周りで自殺した人は何人もいます。僕自身が消えたいと思いつつも死ななかったのは、彼らが僕の代わりに自殺したのではないかと思うからです。上手くは言えませんが、だから僕は生きている。僕は生きようと思います」。
僕が生きるために彼らが犠牲になったということではない。そんなことはあり得ない。しかし、僕にとっては、彼らは僕の代わりに自殺したのではないか、そんな風に思う時がある。だから僕は死なない。はなはだ語弊がある答えだったが、そんな風に答えさせていただいた。
帰りの飛行機の中で自分の答えがどうなのか考えていた。良く解らない。低気圧の影響で飛行機は大きく揺れた。怖いと感じた。そして僕は生きていると思えた。