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2018/01/19

寅さんについて考える―第三回語り場BARにて

2017年12月2日、第三回の語り場BARが開催された。今回のテーマは「寅さんについて考える」である。「寅さん」は、山田洋次監督映画シリーズ「男はつらいよ」の主人公「車寅次郎」である。一九六八年からテレビドラマとしてスタートしたが、その後松竹が映画化した。1969年の第一作から1995年の第48作が制作された。全48作の原作・脚本、第三、四作を除く46作の監督を山田洋次が担当した。「山田洋次そのもの」と言って良い作品である。
寅さんは、なぜこれだけ長くかつ多くの人に愛されたのか。山田洋次は「寅さん」の存在についてこう語っている。「『馬鹿まるだし』『いいかげん馬鹿』『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』と、いずれも(山田の作品)、主人公は愚かで、中途半端で、どこか抜けている男でした。(中略)だいたい僕の作品は、いつもそんなふうな社会からはみ出してしまった人間が主人公で、一流大学をいい成績で出たエリートの技術者とか、政治家とかいう人がぼくの映画の主人公になったことは一度もありません。さっぱり興味が持てないんですね、そういう力強い人間とか、権力をもった人間は。」(岩波ブックレット 『寅さんの教育論』)。寅さんとは、愚かで、中途半端で、どこか抜けている男で、社会からはみ出してしまった人間の象徴である。「俺はそんなんじゃない」と胸を張りたいところだが、しかし庶民はどこかで「自分の本姓」を寅に見る。庶民は、どこかで寅さんの中に自分を見ているのだ。今流行りの「ある、ある」ということ。あの失敗する寅さんの姿は、私そのものなのだ。他人のために奔走し、損得省みず突進し、時にはそれで家族を泣かすほど、他人に熱い寅さんの姿に「自らの本来の在り方」を問われるのだ。そして恋。恋多き寅さんである。でも、成立しないし、最後は自信がなくチャンスを逃す。モテモテのダンディ、ハンサムなジェームスボンド(007)にはなれないが、寅さんの切なさはわかるのだ。しかし、「自分はエリート」と思っている人は、寅さんを「なんと愚かしい人物か」と憐れむ。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」(マタイ7章)とイエスは言う。なぜ、他人の「おが屑」が気になるのか。それは、自分の中に同質で、しかも一層大きな問題「丸太」を抱えているからだ。日ごろ気になる自分の問題を他人の中に見出す。裁きたくなるのは、実は自分自身に対する思い。寅さんは、僕の中にある問題を見事に見える化し、しかも生き抜く。決して解決できているわけではない。多くの人を巻き込みながら、おもしろ、おかしく、切なく生きる。そんな「おが屑と丸太のつながり」が私たちと寅さんの中に存在しているように思う。

寅さんのシリーズは全47作品。私が勝手に選ぶシリーズ最高傑作は、第17作「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」である。その一場面。いつも通り「とらや」を飛び出した寅さん。上野駅で食事をしている。宇野重吉が演じる老人が無銭飲食をして女店員に叱られている。寅さんが割って入る。 「ねえちゃん国はどこだい」「北海道です」「そうかい。国じゃ、あの年格好のおとっつあんがクワもって、娘のお前のことを心配しながら働いているんじゃないのか?とっつあんが無一文でこの店へ酒を飲みに来るということは、それは言うに言えねえ事情があるんだ。お互い貧乏人同士じゃねえか。もう、ちょっといたわり合ったらどうだい」。店員は静かになる。爺さんは「そうだ」と相槌。その日からその爺さんは、とらやに身を寄せる。次の夜、とらやでは、家族が爺さんを非難し始めた。さくらが「あのお爺さん、お昼はうなぎでいいぞっていうのよ」と言うと、おいちゃんが「爺さんに言ってやったんだ。だいたい汗かいて働いて、月に一度か二カ月に一度、うなぎは大騒ぎして食べるもんだって」。すると寅さんは、こんなことを言い出した。「しかしなあ、おいちゃん。あのじいさんの立場になってみろよ。どうせ貧しい借家住まいだよ。せがれと嫁と孫が二・三人。せまっくるしいところで暮らしてたんじゃ年寄りは肩身の狭い思いをするぜ。夜中にふっと眼が覚める。となりの部屋でもって、せがれ夫婦の寝物語。聞きたくねくても、聞こえてきちゃうもの。『ねえ、パパ、私今日友達とあったの。うらやましかったワー。おしゅうとさん死んだんだって。うちのおじいちゃんいつまで生きるのかね。いやんなちゃう。』『でもな、ママ、そんなこと言ったって、脳いっけつになって、いよいよになって、おしめでもあてがっていつもまでも寝たきりになったら、かえって困るじゃないか』『そりゃそうね。うちのおじいちゃんポックリ死ぬとは限らないし。パパ寝ましょう。そうしよう』プチ(電気を消す)これは、地獄ですよ。年寄りにとって。せめて一日。このうちから逃げだして、意地悪な嫁のいないところでゆっくり寝てみたい。この気持ちわかるなー。ゆんべはいい功徳をしてやったと言うもんだ」。寅さんの話にその場の全員が聞き入る。「悪いこと言ったな」と言う顔になる。
実はこの話、すべて寅の想像に過ぎない。本当は、この老人、池ノ内青観という日本画の大家。お手伝いのいる大きな屋敷に住んでいる。とらやを「宿屋」だと思い込んでいた。寅さんの優しさとは何か。それは、その人になって考え、想像し、連想し、共感すること。事実ではないが、優しさにおいて事実であるかは重要ではない。その人のことを受容し、自分の事のように考え一体化する。寅さんは、事実はさて置き、あの老人を自分の中に迎え入れ一体化する。その語りに周囲の者も優しい気持ちになる。あの店員も然り。「優しい」という字は、人が憂いに寄り添うと書くが、それが起こっている。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」(ピリピ二章)。聖書が説く神の愛は、神が人間になるということ。神は人間となり、人間の罪を負い、人間の憂いと苦難を我がこととされた。寅さんの向こうにイエスが見えた気がする。

「寅さんの愛」を明確に示したのは、第三作「男はつらいよ フーテンの寅」(1970年1月公開)。タコ社長の計らいでお見合いをすることになる寅。緊張しつつ見合いの席についた寅の前に現れたのは駒子。彼女は、寅の知り合いで飲み屋のおかみだった。「お前亭主はどうした」と尋ねる寅にタコ社長は仰天。駒子は泣きながら「ダンナに浮気されたとかで家出した」と告白。寅は「俺に任せとけ」とばかり、二人の仲を取り持つことに。やり直すことを寅の前で約束した二人に「これで一件落着。じゃあ、お祝いだ」と、とらやで大宴会が始まる。酒や料理が運び込まれ、芸者さんも登場。おいちゃんたちは、店の隅で心配そうに見ている。宴会が終わるとハイヤーが到着。寅は二人を乗せて「熱海まで」と運転手に告げる。「ご請求は?」と尋ねた運転手に「とらやに付けといて」と寅さん。ついに、おいちゃんの怒りが爆発。「なんでうちが払わねばならないのか」と怒りだす。当然だ。博と取っ組み合いのケンカが始まる。「良かれ」と思ってやった寅さん。博に投げ飛ばされ、寅さんの目に涙。おいちゃんも、寅が幸せになれると思って見合いを勧めたのに、こんな結果になってと泣き出す。とらやの悲しみの中、寅はとらやと飛び出し、旅へ。
寅さんの愛とは何か。それは「不完全なる愛」である。寅さんは、純粋で、駒子と旦那のことを真剣に心配する。これに偽りはない。だが、誰かが幸せになると誰かが不幸になる。寅さんの愛の行使によって、おいちゃんたちは泣かされる。「不完全なる愛」とは、人間の現実である。なぜならば、人はすべて罪人に過ぎないからだ。だから、どのような立派な愛の行為であっても、それが人間の愛である限り、イエス・キリストの贖いと赦しを必要としている。
マルコによる福音書2章に「4人の友だち」の物語が登場する。舞台はカペナウム。イエスに会いたいと多くの人が詰めかけ、その家は隙間もない状態。ひとりの中風の人を4人の友人が運んできた。イエスに癒してもらうためである。しかし家は満杯で入れない。それでこの4人、「屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした」。イエスは、「彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた」。その後、実際にこの中風の人はイエスによって癒された。
一見「良き友情の物語」なのだが、落ち着いて考えるととんでもない。その家にはこの中風の人同様にイエスに助けを求めていた人が詰めかけており、順番を待っていた。それを遅れてきた彼らが順番抜かしをする。そもそも「屋根をはぎ」とは何事か!家主はこれを見て、「助かってよかったね」とは言えんだろう。イエス含め屋内にいた者全員が屋根をはいだ時のがれきやホコリにまみれたに違いない。イエスは、そんな人間の現実、すなわち「不完全な愛」を見て、第一声「罪の赦し」を宣言したのではないか。さらに「彼らの信仰を見て」とあるが、信仰とは、人と神との関係であり、赦され生きる人間の現実を前提とした事柄だと思う。イエスは、このような「不完全な愛」を行使するしかない人間の現実を「しょうがいないねえ」と見ていたのだ。
大切なのは、そんな限界を持ちつつも人は愛し合うということ。寅さんは、性懲りもなく47作全編で誰かを愛しながら、誰かを泣かせ続けた。そこには、「赦されて生きる罪人」の現実を私たちは見る。

今まで見てきたように、「男はつらいよ」は、一貫して「赦されて生きる罪人」として寅さんを描いているように思う。山田監督は「社会からはみ出してしまった人間」と言う。社会はそれらの人々を排除してきた。それはホームレスの現場の風景でもあった。一方、寅にも当然原因はある。寅さんは優しいだけの人ではない。悪を内在しており、不完全であり、時にはエゴイストとなる。ただ、そんな主人公の現実に多くの人々が共感し自己を投影したのだ。寅さんの愛は「人間の愛」に過ぎない。だから全員を幸せにはできない。「それでもいいから愛し合った方がいいんじゃねえのか」と寅さんは言う。そこには、お手本にも、道徳にも、倫理にもならない、人間の現実があるだけだ。
ギリシャ語で「交わり」という言葉は「コイノニア」。このことばは「コイノス」という言葉と関係している。「コイノス」は「汚れ」を意味する。人と人とが交わるときれいごとでは済まない。絆は傷を含む。交わるとは「汚し合う」ことであり、罪を分かつこと。「コイノーノス」は「仲間」を意味する。だが、「汚れを分かちあう関係」が仲間である。これが「共犯者」に終わるか「共生する仲間」につながるかが問われる。
寅さんは常に誰かを愛している。だが、それが周りには「はなはだ迷惑」。家族はいつも泣かされている。この泣かされたおいちゃん、おばちゃん、さくらが寅さんを「お帰り」と毎度笑顔で出迎えるシーンが繰り返される。所詮映画の中の話と言いたくない。なぜなら加速度的に「迷惑は悪」という価値観が広がる今日の日本社会においてその場面はカウンターカルチャー(対抗文化)と言えるからだ。自己責任が取れる迷惑をかけない人を求めた社会は、助けてと言えない、助けてと言わせない無縁社会となった。「助けて」は甘えであり、他人に迷惑をかけることだと断罪された。「自己責任論の時代」とは、そういうことであった。だから寅さんは「迷惑」であり、「ありえない存在」なのだ。
しかし、寅さんは「でもな、迷惑抜きでは優しさなんてありえねえんじゃねえか」と問う。私たちは、そんな寅さんの問いかけを根本的に否定できないでいる。身に覚えがあるからに他ならない。だからこの「迷惑な寅さん」が私たちを癒すのだ。迷惑かけまいと頑張る自分が「背伸びをしている」に過ぎないことを気づかせてくれるからだ。寅を受け入れることは、自分の限界を認めること。愛そうと頑張っても相手を汚す、傷つける自分でしかないことを寅さんを通じて確認する。そんな愛の不完全さの認識こそが、私たちをやさしさと赦しに導く。
神がお創りになられた人間の本質は「罪ある存在」である。イエスは「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章)と言った。神の前に生きるとは超人化することでも義人になることでもない。罪人として赦されながら生きることに過ぎない。「義人はいない。一人もいない」(ローマ3章)のだ。
寅さんが突きつけるのは「人に内在する悪」の現実だ。寅さんは「汚れ」の問題を曖昧にしない。「迷惑かけない出会いも、恋も、愛も、へったくれもござんせん。だから赦してやっておくんなさい」と寅さんに言われると、「そうだ、傷つけながらもそれでも愛そう」と思えるのだ。

「寅さんを考える」も最終回。社会からはみ出た存在が、あるいは罪人が、誰かを愛し誰かのために奔走する。当然上手くは行かず、家族は常に泣かされる。それでも寅は、寅として生き続ける。そこには、寅さんという「存在に対する絶対的肯定」が貫かれている。だが、現代社会はそんな男を認めない。「意味がある存在か」と問う。「生産性はどうか」と。私がこれまで出会ってきた「街場の寅さん」たちは、常に社会から厳しく問われた。私も「時代の子」だ。「お前には意味があるいのちか」と問われ、怯えている自分がいる。そんな時代にあって寅さんが生き続けること自体に意味があったと思う。
「男はつらいよ 第39作 寅次郎物語」のラストシーン。甥の満男が「人は何のために生きるのか」を寅さんに問う。「そんなぁ 難しいこと聞くなぁ 何て言うかな。生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるだろう。そのために人間生きてんじゃねえのかな」と寅は答える。「難しいこと考える前にともかく生きろ」と寅さんは言ったと思う。「よかったと思える日」は時々(何べんか)ある。だが、「それを確認できないと生きられない」というわけではない。「生きる」という「大事」からすれば「よかったと思える」は「小事」に過ぎない。人は生きる意味や資格があるから生きているのではないのだ。まず生きる。そうこうしていると「よかった」と思える日が来るだけだ。寅さんは、問題児であるにも拘わらず赦され生きていく。意味の有無が前提ではない。「存在に対する絶対的肯定」があるのみ。
日本において若者の死因のトップは「自殺」である。他の先進国では「事故死」。なぜ日本では「自死」なのか。「意味のあるいのち」と「意味の無いいのち」を分断する社会の中で、自らの存在を肯定できずにいる若者が増えているのだろう。
しかし寅さんは、どっこい生き続ける。諦めず生きる。完全でなくても良い。人に迷惑をかけても良い。寅さんを見よ!と。面白いのは、そんな寅さんが生き続けることで助かる人が出てくる。当然、泣かされる人もいるが・・・。「生産性?経済効率性?何のことだい?難しいこたあ 俺にはわかんねえなあ」と寅さんは言いながら、楽しそうに生きていく。みんなそんな寅さんが好きになる。いや、ホッとするのだ。そこには「存在に対する絶対的肯定」が貫かれているからだ。この安心感が寅さんの第一の魅力だと思う。
寅さんは言う。「たった一度の人生をどうしてそう粗末にしちまったんだ。お前は何の為に生きてきたんだ。なに?てめぇの事を棚に上げてる?当たり前じゃねえか。そうしなきゃこんなこと言えるか?」(同上39作)。キリスト者は、赦されて生きる道を選んだ。「善人」や「義人」に成ろうなどと考えていない。常に十字架のイエスに自分の罪の審きを見る。死ぬべき自分が赦され復活のいのちに与っているのだ。そんなキリスト者が「愛を!平和を!」と行動する。当然上手くいかない。罪人の運動に過ぎないからだ。それでも自分の事は棚に上げて愛に生きようともがく。だが「奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の日が落ちる」が生き続ける。これが寅さんであり、キリスト者なのである。

おわり

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