2019/09/01
9/1巻頭言「責任の分母を増やそう」
8月22日大分地裁は、マンションの管理人を突き飛ばし死亡させた知的障害者の親に対する賠償請求を棄却した。これは2014年、知的障害のある無職男性から突き飛ばされ死亡した男性管理人の遺族が、監督義務違反を理由に男性の両親に損害賠償を求めた訴訟。裁判長は1999年の精神保健福祉法改正で、直ちに見守る法的義務が発生するとはいえないとした。死亡させた男性は17年に傷害致死容疑で書類送検され不起訴となった後、死亡している。
死亡した男性の家族の気持ちも痛いほどわかる。もって行き場のない悲しみと怒り。一方で責任を問われた親の思い。何よりも突き飛ばされ亡くなったご本人の思い。どう整理したらよいのか。判決がどちらに転んでも、すっきりしないものを感じる。裁判所の判断にゆだねるが「責任」ということを社会はどう考えるべきかを問われたように思う。
今日「責任」は「自己責任にあらずば身内の責任」という二者択一へと加速度的に進んでいるように思う。「責任を担う分母が自己か身内か」しかない。今年六月、元農水事務次官の父親が息子を殺すという痛ましい事件があった。「他人に迷惑をかけてはいけないと思い息子を刺した」と証言する父は「親の責任を取った」と言いたかったのか。これに対して評価する声さえあるが、それでいいのか。
生きづらさを抱え、長期にわたり社会に出ることが出来ない息子を両親が「抱え」続けている。引きこもる子ども(大人も!)の身を寄せる先が「身内」しかない現実。最近は、引き受けをビジネスにしている業者もあらわれたが実態はどうか。本人と身内だけに責任を負わせる社会は、果たして「社会」と言えるのか。
それでも生きていてくれたらと身内は支え続ける。身内という「安全基地」がいなければ死んでいたかも知れないのも事実だ。だとしても親が抱え続けるには限界がある。親も子も年老いていき、限界の先に絶望の闇が広がる。そして子殺しへ。これは社会の敗北だ。ひきこもり状態にある人と家族にとって、まず必要なのは「身内以外のひきこり先」を確保すること。つまり、親や身内以外の「責任」を増やす。つまり「責任の分母を増やすこと」だ。「引きこもり対策として就労支援の強化を」との声も聞こえるが慎重にすべきだと思う。
自己責任と身内の責任が強調され過ぎる社会は、その副作用として「社会の責任」や「公の責任」を曖昧にする。自己責任論が社会の無責任を肯定してしまう。裁判では、親の責任をのみ問うた。そもそも遺族が親を訴えたのだから仕方ないが、裏を返せば「訴える先が親しかない」ということを示している。「ひきこり社会」と同じ現実がそこにある。本人(自己)と身内だけが責任を負うという社会は長くはもたない。8050(80歳の親に50歳の子どもが引きこもる)と言われて久しいが、二つあった「責任の分母」が一つになる日も近い。「責任の分母を増やす」しかない。
分母の無さ、すなわち訴える先の無さが、この判決のすっきりしない原因だ。イエスという方は、全くの赤の他人の十字架を負われた。それが愛ということだと聖書は語っている。やっぱり、そうなのだ。愛とは社会化の作業だと言える。