2018/03/25
中外日報最終回「いのちに意味がある―宗教福祉ネットワークの地平」
(中外日報は、主に仏教界の方々が読まれている新聞である。この度、四回にわたり連載で随筆を書くことになった。テーマは、宗教および宗教者が担うべき困窮者支援の在り方について。宗教がその気になれば、大きく社会は変わると信じて書くことにした。)
2016年7月26日相模原市の障がい者施設が襲撃され19人が虐殺された。容疑者は、会話ができない障がい者を「心失者」と呼び、「生きる意味がないいのち」と断じた。「障がい者は不幸を造り出すことしかできない」「生産性が低い障がい者を殺すことは日本と世界の経済のため」として彼は犯行に臨んだ。
事件の異常さもさることながら、後の社会の様子にも違和感を覚えた。私たちは、この社会は、本気でこの犯行に怒っただろうか。かつて、池田小事件が起こった時、社会全体が悲しみ怒った。しかし、今回は家族や福祉関係者は議論を重ねているが、社会全体は動じていない様に見えたのは私だけだろうか。この社会は、どこかで容疑者の言い分を受け入れている様にも思えた。「意味のあるいのち」と「意味のないいのち」。無いはずの、あるいは、あってはならない「分断」がいつの間にか常態化しているように思う。
ある講演会で「生きる意味とは何ですか」という質問を受けた。ともかく「人は出会いの中で生きる意味を見出す。独りで考えていないで色々な人と出会う中で意味を見出しましょう」と答えたが、途中でそれではダメだと思った。「生きる意味」を問う前に、まず言わねばならぬ事がある。この問いは「第二の言葉」に過ぎない。「生きることに意味がある」とまず言い切ること。この「第一の言葉」を欠いては「第二の言葉」は語れない。出会いの中で答えを見出すと言っても、見いだせない日もある。だから「生きることに意味がある」とともかく言い切る。この順番は不可逆でなければならない。
私たちは分断の時代を生きている。「意味のあるいのち」と「無いいのち」。「非正規」と「正規」、「高齢者」と「若者」、「日本人」と「在日外国人」など。「分断線」は「憎悪」を生む。ヘイトスピーチが止まない社会となっている。そんな中、宗教は大丈夫か。「クリスチャン」と「ノンクリスチャン」、「門徒」と「以外」、「救われた人」と「救われていない人」。元来、宗教が拠って立つ価値とは何か。それは「普遍的価値」でなければならない。宗派や教団の都合が優先されるのではなく、宗教者は「いのちという普遍的価値」に立つ。
「宗教福祉プラットホーム」は、あらゆる分断を超えて形成される。「いのち」との向き合いこそが、宗教であり、福祉なのだ。早急に宗派を超えた宗教者による困窮者支援の取り組みが始まることを祈っている。 以上