2018/04/22
4/22 巻頭言 「断らない、ということ」
昨年度、厚生労働省の生活困窮者自立支援制度の見直しのための「社会保障審議会」に参加していた。半年間で十一回の審議があり、相当疲れたが有意義な議論だった。現在、国会で「改正案」が審議されている。
その場で「相談事業とは何か」という議論が起った。今回の答申の中で、生活困窮者自立支援制度が目指す相談支援は「断らない相談」であることが明記されることになった。これはまさに「わが意を得たり」という思いだった。この国の「制度」は、いわゆる縦割り状態になっており、制度の隙間に陥る人が多く存在し、それらの人々が困窮者となっている。だから「誰も漏らさない相談の窓口」を創るということが、何よりも必要だと私は考えていた。
しかし、この「断らない相談」に対して、「相談を受けるのはいいけれども、出口(問題解決の手段)がないと相談を受けることはできない」や「就職先などを確保しないまま相談を受け続けると相談員がバーンアウト(燃える尽きる)する」という危惧の声が起こり、「断らない相談」と明記すべきではないとの意見さえ出た。確かに「出口の確保」は、重要な事柄だ。この生活困窮者自立支援制度は、給付、つまり、お金を支給したりする仕組みが無い制度なので、どれだけ既存の社会資源と連携するかが勝負となる。
しかし、これらの意見は、一方で従来の「相談支援」が何を意味してきたのかを示すものだと言える。つまり、従来の支援は、その目的を「問題解決」に置いてきた。一見、「あたり前」のように思えるが、私はそうでもないと考えている。問題解決は大事だが、この問題には解決できる問題とそう簡単には解決できない問題がある。解決だけをゴールとすると、解決出来そうもない相談や、そのための出口が確保できていないと、「相談を受けない」と言う結果に終わる。
私は、相談には2つの機能があると考える。一つは「問題解決」である。しかし、それ以上に重要なのは「相談そのもの」だ。つまり、相談とはとにもかくにも「つながる」ことであり、孤立させないことである。その人と伴走すること、その関係そのものが、実は支援であり、目的なのだ。
「伴走」が目的とされる時、問題解決できなくても相談を受けることは可能になる。就労支援というと就職が目的となる。一方、伴走型支援は、伴走が目的。現在の非正規中心の雇用状況では、一旦就職できても二、三年後に第二、第三の危機が起こる。その日、誰に「助けて」と言えるかが勝負となる。
イエス・キリストは、「インマヌエル=神我らと共にいます」という預言の成就であった。ここには、病気治癒や給食の奇跡のような「問題解決」ではない、救いのイメージが語られている。それは、「共にいる」と言うことだ。共にいることが救いであるならば、私たちは、「断らない相談」を可能することができる。問題解決だけを語る宗教は、ご利益宗教。しかし、キリスト教は、それのみならず、「共にいる」で勝負する。