2018/09/09
9/9巻頭言「富とは何か?―第六回語り場BARで考えた」最終回
(今回の語り場BARは、「富について考える」。税理士の山内英樹さんから、社会の在り方についてお話しを聞いた。私も富について考えたことを以下に整理する。)
聖書に繰り返し登場する給食の奇跡において、イエスは「5つのパンと2ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、2ひきの魚もみんなにお分けになった」という。イエスはパンと魚を「祝福」された。「祝福」とは何か。辞書によると祝福とは、「幸福を喜び祝うこと。キリスト教では、神の恵みが与えられること。また、神から与えられる恵みを意味する」となっている。さらに、「祝福」を求める祈りを「祝祷」と言う。毎週の礼拝で牧師が「祝祷」をする。私の場合、「仰ぎ乞い願わくば、主イエス・キリストの恵み、主なる神の愛、聖霊の助けが私たち一同の上に、すべての人々の上に豊かにとこしなえにあらんことを」と少々「よそいきの声」で祈る。一言でいうと「祝祷」とは、自分のための祈りではなく、他者を覚え、他者に神の恵みをと祈ることである。
荒野でのイエスの「祝福」も「祝祷」だったと思う。イエスの目前には、腹を空かせた5千人以上の人々がたたずんでいた。だが、手元にはパンが5つと魚が2匹しかなかった。圧倒的に不足している状況で、イエスは天を仰いでそれでも「祝祷」したのだ。「神よ、どうか、あの人々を守ってください。彼らに神の恵みを与えてください」と自分はさて置き祈った。するとパンが増え人々は満腹したという。「祝福」とは「他者のための祈り」を意味する。「祝福」の本質は「隣人性」であり、故に万人の豊かさへとつながる。
残念ながら現代人は「祝福」から疎遠になった。自分の事だけ考えて、いかにして「自分が祝福されるか」ということを考える。確かに自分のことは大事だ。しかし、「自分」「自分」と祈っていると、「祝福(神の恵み)」から遠ざかる。「あの人々に」「彼らに」と他者のことを祈ると「みんな食べて満腹した」と聖書は語る。それが「祝福」だと。
イエスは、弟子たちに祈りを教えた。「主の祈り」である。「日々の糧を与え給え、赦し給え、悪より救い出し給え」と。しかし、特筆すべきは、祈りの主語だ。イエスは、「私」ではなく、「私たちと祈れ」と言う。「『私のごはんをください』はダメ。それでは『祝福』されない。祈る時は他者の事を考えて祈りなさい。つまり、『私たちのごはんを与えてください』と。そうすれば祝福される」とイエスは教えた。それが「主の祈り」だ。
富は「祝福」として考えなければならない。もし、その前提を無くせば、富は「私利私欲」に埋没する。パンは五つしかなかった。良くて五人、悪くすれば一人が食べて終わってしまう。しかし、イエスは、そこで「祝祷」してからパンを割いた。すると、全員が満腹した。どういうことが起こったのか、わからない。しかし、そこには「祝福―祝祷」、すなわち隣人の存在があったのだ。
生きるには「富」が必要だ。だからこそ、私たちは「主の祈り」を祈りつつ、生きていきたい。「祝福」をもって「富」分かち合うことが出来れば「私たち、すべての人」が満腹できる社会を築くことができる。
以上