2019/05/19
5/19巻頭言「誇るな―人であり続けること」
NHKは4月18日、平成天皇の伊勢神宮参拝の報道で「皇室の祖先の『天照大神』をまつる伊勢神宮の内宮」と報じた。その後、NHKはミスを認め「天皇を神格化しようといった特別な意図があったわけではない」と釈明した。天皇制問題の本質は「神格化」にある。
天皇制における神格化は「天皇が神である」ということに留まらない。日本国憲法第一条にはこのように書かれている。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」となっている。憲法学上の詳しいことは解らないが、天皇と国民は「象徴」という関係においてつながっていると言う意味だろう。ならば「天皇の神格化」は、すなわち「国民の神格化」を意味する。つまり、天皇が「神」ならば、天皇を統合の象徴とする国民も「神」となる。かつてこの国は「神国」という幻想を持ち、国民は自分たちが特別な存在であるかのような幻想を持った。そのような「選民思想」が他国の人々、とくにアジアの隣人を差別し、侵略を正当化した。さらに、かつての「経済大国」としての自信を失いつつある現在の日本でも、人々は自分を「特別」と誇りたい誘惑にかられている。
聖書には「誇る」という言葉が20カ所程に登場する。ほとんどパウロの言葉であるが、パウロは「恵みによって救われる者はどう生きるのか」という課題に対して「誇らない」という生き方を示している。「もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみ前ではできない」(ローマ書4章2節)や、「あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである」(ローマ書11章18節)。「それはどんな人間でも神の前で誇ることがないためである。誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1章)。
イエスは「神の国」を目指していた。だが、彼は神格化と正反対の道を歩み、十字架に架けられた。「神国日本」との絶対的違いは、「神の国の民は誇れない」ということにある。教会は、「自分を誇りとしない共同体」なのだ。なぜなら、自分たちがイエスを十字架にかけて殺した張本人であり、にも拘わらずイエスはその罪の贖いとなってくださったからだ。聖書における神の国の住人は、赦された罪人に過ぎない。教会は「誇らない」、否「誇れない」者たちによって形成される。「誇れない」ことは情けないが、ある意味「楽」だ。正直に行ければいいのだ。だから、間違っても「天皇は神の子孫であって、その天皇に象徴される私達国民もまた神の子孫」などと嘘をつかなくても良い。そうではなく、過ちを繰り返しながら、赦されながら生きていく人間として生きるのだ。
象徴天皇制における天皇を「素のままの国民」の「統合の象徴」とするならば、それは「どうしようもない罪人である国民・人間の象徴」で良いわけであって、何も「天照大御神の子孫」と無理して「誇る」必要はない。誇らない、誇れない、そういう人であり続けたい。