2019/08/04
8/4巻頭言「星の下は、なぜ必要か」
東八幡教会は、今回の中長期計画において「すべての人の教会となる」を目標に掲げた。なぜ、「すべての人」を私たちは選んだのか。単純に言ってすべての人、例えば60億人以上の全世界の人がこの教会に入れるわけではないし、「世界中の人がキリスト教になるべきだ」などと恐ろしいことを主張しているわけではない。
しかし、私たちは「すべての人」を目的に掲げた。それは、端的に言ってこの世界が「孤立の時代」を迎えているに他ならない。昨今の政府の調べでは中高年を含む「ひきこもり」状態にある人の数は115万人。無縁状態で亡くなる人が年間3万人。国際調査では、日本の孤立率(日ごろ誰とも付き合わない、めったに付き合わない)は17%であり、米国3.7%、英国6.2%と極端に孤立化している。「日本は縁(えにし)の国」「地縁、血縁の社会」と思っている人は少なくない。しかし、それは現実ではない。私は、かつて路上で暮らす人々が抱えていた苦難を「ハウスレス=経済的困窮」のみならず「ホームレス=社会的孤立」と捉えた。この30年で「社会が路上に追いついた」と言わざるを得ない。
そういう現実の中で、東八幡教会が使命(ミッション)としたのが「つながること」だった。「ともかくつながろう」と。求道者を含めた礼拝出席者がキチンとつながっているだろうか。全員が年老いていく。さらに、病気やその他の事情で礼拝に出席できない時もある。それでもつながるにはどうしたら良いか。これまで手紙や週報の発送を丁寧にやってきた。礼拝に出られなくても献金を送って下さり、祈って下さる方々がいる。「星の下」ができることで礼拝の様子をインターネットで、自宅で、病院で見られるようになる。「パソコンは苦手」と言う方もおられる。でも、「無いよりまし」ではないだろうか。また、現在礼拝に来られている方は無理してインターネットをしなくても良い。「星の下」は礼拝に来ている人のためではなく、「礼拝に来られない人の隣人になるのか」を問うている。
「引きこもり」の方々を含め、どうしても家から出られない人、大勢の人の中に入ることはしんどいと言う人がいる。この人々に東八幡教会は何ができるのか。できれば礼拝に来て顔と顔と突き合わせ一緒に礼拝できればいい。でも、それができない人はどうするのか。東八幡教会は、「それは自己責任です」とは絶対に言わない。こちらから歩み寄って「つながりましょう!」「一緒に行きましょう!」「あなたも私も神様の家族ですから」と言える教会でありたい。そのために「星の下」は生まれたのだ。どんな形であれ「つながる」ことが大事だし、神の家族とはそういうこと。
時代は、加速度的に孤立を深めている。いや、それどころか「社会的排除」が進んでいる。「朝鮮人は殺せ」「障害者は生きる意味がない」「年寄は早く死ね」など、この社会は「つながる」ことを否定し、分断を進めている。その中で東八幡教会が、「キリスト教会」としてどうあるべきか。真剣に考える時が来ている。「星の下」は、分断と孤立に対抗する「福音」となれることを祈りたい。