2020/11/15
11/15巻頭言「平和の旅を継続したい」
東八幡キリスト教会は、一年ごとに長崎、広島、沖縄へと平和の旅を重ねています。2020年は、沖縄の年でしたが、コロナもあり、沖縄の旅は一旦延期となりました。
旅の終わりは宜野湾市にある佐喜真美術館です。ここには丸木夫妻の沖縄戦の図が展示されています。絵の前で子どもたちと共にみことばに聴き祈ります。建物の屋上に通じる階段の先に小さな窓が開いた壁があります。6月23日夕陽がこの窓から差し込む設計になっているのだそうです。6月23日は沖縄慰霊の日。1945年のこの日、日本軍の組織的抵抗が終わったとされている日です。実際はその後もなお住民たちは惨禍にさらされ集団自決の強要、切込み隊などへの志願などが続きました。戦闘が実際に終わったのは終戦後のことでありました。
私は、佐喜真美術館に何度も行きましたがその度に新たな感動を覚えます。ただ6月23日にあの階段を上ったことはいまだありません。6月23日の夕陽が差し込むあの窓から一体何が見えるのか、私は見てみたいのです。いや、逆にあの窓から戦後の世界がどのように見えているのか、私は自分に問うてみたいのです。
米軍再編というアメリカの都合が、さも日本の「国益」に関わる事柄であるかのように政治家は言います。沖縄の基地機能は全国に飛び火し福岡県築城基地は戦闘機の訓練地となりました。そして辺野古の海は埋め立てられ新しい基地が出来ようとしています。
あの窓から私たちは何を見るのか。あの窓から私たちはどのように見えているのか。6月23日の沖縄慰霊の日、「平和の礎」に多くの遺族が集われます。お墓参りの光景だとも聞きます。23日は生きている者たちが死んだ人々に思い寄せる日。しかし同時に23日は、あの窓から陽が差し込むように、沖縄戦で死んでいった24万の人々が私たちを見つめる日なのではないかと思うのです。窓から差し込む夕陽にさらされるように、殺されていった人々のまなざしにさらされることこそが今必要なのではないかと思います。
信仰においては、もっぱら私たちが神様をいかに熱心に見つめるかに重点が置かれます。私たちのまなざしが何に向かっているのかということです。しかし、同時に信仰は、神からのまなざしにさらされることなのだと思います。神様は、私をどのように見ておられるのか。神の目に私はどのように映るのか。それを問うことは大切だと思うのです。
6月23日。一度夕日にさらされながらあの階段を上りたいと思います。平和憲法を捨て、海外派兵を繰り返し、靖国神社参拝を繰り返す戦後の私たちがどのようにあの窓から見えるのか考えねばなりません。みんなであの階段を上り夕陽にさらされるように、死者たちのまなざしにさらされるのです。