2020/12/06
12/6巻頭言「電源の入らない携帯電話がつながる日―渋谷ホームレス女性殺害事件」その③
【今週のことば】
(先日東京渋谷で起きたホームレス女性の殺害事件についてWEB論座用として準備している原稿です。今回は、その③)
かつて私が知り合ったホームレスの親父さんも、終電後の駅に戻りダンボールを敷き眠り、始発の前にその場所を去り町に消える。そんな日々を送る彼は、「見られのも嫌だしみんなに迷惑もかけたくない」と言っていた。Oさんもまたそうだったのだと私は「想像」している。
事件を通報した女性は、「いつも見かける人が倒れている」と110番に告げた。Oさんは「いつも見かけ」られていたのだ。さらに「パーカを着たり、上着を着たりして寝てて、最近寒いので、凍死しちゃうんじゃないかなと心配していた」、「ベンチに座ってね、もう1カ月くらい前から気になっていた。キャリーケースを杖みたいにして寝てるんです」との声も報じられている。Oさんは認識されていたし、心配もされていた。しかし、それらの思いは、個々人の中に留まり、肝心のOさんには伝わらず、「心配」が公的機関や支援団体につながることもなかった。あと一歩のところでブレーキがかかったのだ。
もし小学生の女の子がバス停で夜を過ごしていたならばどうだろう。「大騒ぎ」になっていただろう。心配しながら一か月も放置されることは、まず無い。しかし、相手が大人であり、かつ「ホームレス」の場合、強烈なブレーキがかかる。これを差別と言う。
昨年9月。台風19号が首都圏を直撃した。テレビでは「いのちを守る最大限の努力を」との呼びかけが繰り返された。その中、ホームレス状態だった人が台東区の避難所を訪れた。しかし「ここは区民のための避難所だ」と入室を断られ、嵐の中へ押し返された。後日、区民以外の外国人や旅行者は受け入れていたことが判明し、区長が当事者に謝罪する事態となった。
経済格差が問題となっているが、格差はいのちにまで広がっている。「大事にされるいのち」と「ぞんざいに扱われるいのち」。そんな「いのちの分断」が社会には存在している。この分断は、さらに深まっている。2016年7月の相模原事件は、「いのちの格差」を明示した事件だった。私たちは、この分断をどうやって乗り越えることが出来るだろうか。
4、想像力という「教養」
Oさんの所持金は8円。想像したい。8円しかないという現実を。たまたま通帳から下ろし忘れたのではない。全財産が8円なのだ。私ならどうだろうか。
「衣類と食品のゴミ」を持っていたと報道は伝えた。しかし、この報道は間違っている。記者の目には、あるいは担当した警察官には「食品のゴミ」としか映らなかった。しかし、それは間違いなく彼女の「食べ物」だった。「ゴミ」ではない。誰が「ゴミ」を大事に持ち歩くか。彼女のいのちをつなぎとめるための「食べ物」だったのだ。「ゴミを食べざるを得ない人の気持ち」を想像したい。自分ならどうだろうか。
つづく