10/29巻頭言「平和ボケのデクノボーの役割」
「日本は平和だ」と言うと「日本にも貧困や格差、差別など問題が山積している」と言われる。その通りだ。困窮者の現場に長年いるので、この国が決して豊かでも平和でもないことを私も多少は知っている。子どもの自殺は500人を超え、炊き出しに並ぶ人も増えた。それが現実だ。一方で「中国の脅威」とか「北朝鮮の脅威」などを挙げ「もはや平和ではない。戦争に備えよ」という人もいる。とはいえ、今日この時点で私たちは「平和に生きている」。戦場の人々には申し訳ないほど「のんきに平和に」過ごしている。
実際ウクライナ・ロシア、さらにガザ・イスラエルの現状が日々伝えられる。ほんの一部分に過ぎないと思うがその悲惨に胸が痛む。一方、日本がどれだけ平和かが身に染みる。そして、そんな状況が戦後70年以上続いているのも事実だ。「平和憲法は世界の現状に合っていない」と改憲を求める人がいる。しかし、憲法があったからこの「平和」が維持されてきたのも事実だ。さらに「それはアメリカの核の傘の下に入っていたからだ」と言う人もいる。それも事実かも知れない。属国のように生き延びたのだ。ただ、アメリカの核の傘の下には多くの国が存在する。それらの国がすべて日本のような「平和ボケ」できたかというとそうでもない。戦争を経験した国はいくつもあるし、肝心のアメリカも戦争とは無縁でおれなかった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争等々、数々戦争を経験している。その度に多くの若者が死んでいった。しかし日本は直接戦争はしなかった。国民がそれを望まず、政府もそれなりの努力を重ねた結果だと思う。 今、世界を巻き込みながら戦争が起こっている。ウクライナを応援するか、ロシアを応援するかが問われた。日本も「武器はダメだがその他なら」とヘルメットなどをウクライナに供与した。「平和ボケ」の国がすることではない。今度はイスラエルかパレスチナか。アメリカはじめ主要各国はイスラエル支持を表明。これでは戦争は拡大するに決まっている。
「平和ボケ」の日本の役割とは何か。「頭の中がお花畑の人」がやるべきこととは何か。それは「止めとけ」ということだ。「平和はいいぞ」と「羨ましがらせる」ことだ。「何をのんきなことを」と批判されるだろう。しかし、日本のように「平和を謳歌し、のんきに生きてきた国」はそうそうないのだ。この貴重な経験を最大限生かすことができるのは日本ぐらいではないか。宮沢賢治は言う。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫なからだを持ち 欲は無く 決して瞋(しん:怒)からず 何時も静かに笑っている (中略) 東に病気の子供あれば行って看病してやり 西に疲れた母あれば行ってその稲の束を背負い 南に死にそうな人あれば行って怖がらなくても良いと言い 北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い 日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず そういう者に私はなりたい」。「平和ボケのデクノボー」の役割は「つまらないからやめなさい。平和はいいですよ」と説得すること。それは「平和ボケ国家」の使命である。
ちなみにイエスは「敵を愛せ。迫害する者のために祈れ」と言う。ずいぶんと「ボケ」てらっしゃる。だが、このことばは二千年の時を経て今に生きている。