2024/02/18
2/18巻頭言「『つながる』ということ」
昨日から伴走型支援士のスクーリングに来ている。今回も専門職を中心に20名ほどが参加された。従来の支援が「問題解決」を目的としていたのに対して伴走型支援は「つながる」ことを目的とする。解決しなくても「ひとりにしない」ということが大事だからだ。解決をあきらめたわけではない。解決するためにも一緒に考え、一緒に悩む人の存在が大事ということだ。僕が僕をあきらめた日に僕のことをあきらめてくれなかった人がいたか。それが重要なのだ。
伴走型支援のスクーリングに来る人の大半は福祉専門職、いわゆるソーシャルワーカーだ。皆さん現場で真摯に人と向かい合ってこられた。ソーシャルワークは問題解決を目的としている。日本学術会議のソーシャルワークに関する論文にはこのように書かれている。「ソーシャルワークとは社会福祉援助のことであり、人々が生活していく上での問題を解決なり緩和することで、質の高い生活(QOL)を支援し、個人のウェルビーイング状態を高めることを目指していくことである。」(社会福祉・社会保障研究連絡委員会)。しかし、そうは解決しない。そういう現場で苦闘している人々が伴走型支援に期待をかけるのは当然だと言える。つまり、「つながること」、「キチンとつながること」で困難ケースを解決に導くことができるのではないか、そんな期待が「伴走型支援」に寄せられる。
ゆえに「つながり」とは何か、何をもって「つながった」と言えるのかが議論される。同感、共感、理解などが「つながり」の本質として語られる。確かに、そこまでいけば「つながった」と言える。しかし、現実は単純ではない。十年通っても心を開いてくれない人もいる。アパート入居を勧めても「放っておいて」とかわされる。中には自殺を選んだ人もいる。
合意や理解、共感ができなければ「つながった」ことにならないのなら、その十年は無意味になる。ある時点で共感したつもりになっても、本当にその人を理解できたかは疑問だ。いや、究極的にはその人のこと(個人)を他人である僕が理解できるわけない。
抱樸では最後まで心を開かず逝った人も葬儀をしてきた。インタラクティブ(双方向性)なやり取りは成立しなかった。葬儀はこちらが勝手に関わり続けた結果だ。それも「つながり」だと思う。わかり合えず、共感もできず、理解できなかったとしても「つながり」を持ってきた。それがなければ「葬儀」もあるまい。それが伴走型支援なのだ。
ひとりよがりで勝手な考えかも知れない。しかし、そういう勝手で、ひとりよがりであってもつながろうと思う人を増やせるか。それが今、問われていると思う。そもそも聖書の神は実に一方的に「共にいる―インマヌエル」(マタイ福音書1章)と宣言されている。伴走型の原点を見る。