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2024/05/12

5/12巻頭言「究極の依存状態」

 昨日、第39、40期の「自立支援住宅出発式」があった。今回2人の方が出発された。2002年5月自立支援住宅が開所。野宿状態の方が着の身着のまま手ぶらで入居でき半年間、担当ボランティアが伴走する。まだ行政がホームレス支援を始める前、「ならば民間で」と始めたのが「自立支援住宅」である。
「自立」を支援する住宅。名前の通りなのだが、この取り組みは「自立とは何か」を問いかけた。自立は「自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやって行くこと」と辞書にある。当初、そんなことを考えた時もあったが、抱樸が考える自立は全く違うものであることが活動の中で分かってきた。
 辞書通りの「自立」ならば野宿時代の方がよほど「自立」していた。誰にも頼れず独りぼっち公園の片隅で生きていたのだ。家族との縁は切れ、偏見と差別にさらされながら誰にも「助けて」とも言えない。「自分以外のものの助けなしでやっていく」のが「自立」ならば彼らはとっくに自立していた。
しかし、そんな「自立した人」が「自立支援住宅」に入られる。なんのために?それは「健全なる依存」を手に入れるためだった。「依存」は「他のものによりかかり、それによって成り立つこと」とされ、「依存症」との関連では「特定の何かに心を奪われ、やめたくても、やめられない状態になること」とされている。肯定的な意味はない。だが、そうだろうか。「他のものによりかかる」ことはそんなに悪いことなのか。人間というものは、誰かに支えられ、誰かに頼り、同時に誰かに頼られ生きているのではないか。それがダメだというのなら「野宿にもどれ」と言うしかない。そうではなく、人が人として生きていく上で「健全なる依存」は当然のことであり、「自立支援」は「依存しあう関係をより多くの人との間に築くための支援」だと抱樸では考える。ちなみに「健全」の意味は、「相互性」にある。一方的に「依存先を増やす」のではなく、相互依存という関係を増やすことが大事だ。とはいえ「依存支援住宅」はいくらなんでもおかしいので名称は「自立支援住宅」のままだが。
 今日の出発式において担当者が口にしたのは、「自立支援住宅は今日で出発ですが、関係はこれからも続きます。あなたが死んだらみんなでお葬式をします。私が死んだらお葬式に出てください」という事だった。抱樸では「お葬式」を大切にしてきた。最期に家族が来ない人が大半だったからだ。だから赤の他人がお葬式を出し合う仕組み「地域互助会」を作った。「葬儀」とは何か。それは「究極の依存状態」だと言える。本人は亡くなっており、もはや自分で何ひとつできない。参列した人にお礼も言えない。自分の棺を担ぐことも出来ない。すべてをお任せするしかない。「なんとかしてくれる」。長年抱樸で培われたつながりは、そんな安心を僕らに与える。だからお葬式は「自立とは何か」を極めて鮮明に僕らに示す時となる。
 そんな「自立支援」にこれからも力を入れていきたい。改めて出発されたお二人におめでとうと言いたい。

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