2024/09/01
9/1巻頭言「戦争の種」
先日、ある方から「戦争になったら日本の若者は戦場に行くと思いますか」と尋ねられた。その方は「私は行かないと思います。今の若者がお国のために死ぬとは思えません」とのことだった。武器のIT化が進んでも戦場は結局のところ「兵士」を必要とする。誰も戦場に行かなければ戦争にならない。この方の言う通りなら戦争はできない。それならそれでいいのだが。僕は半分うなずきながら「そう楽観できないかも知れませんよ。一夜にして変わるかも知れません」と申し上げた。
ネットの世界を見ていると「戦争の種」のようなものを感じる。ネット上で他者を執拗にバッシングする人がいる。バッシングに必要なことは二つ。一つは「匿名性」。プロフィールなどが比較的明確な媒体に比べて匿名性の高い媒体はバッシングが激しいように思う。「無責任」に発言ができるからだと思う。そういう「過激」な言動に、これまた「匿名の他者」が「いいね」と乗っかり「リツイート(拡散)」する。真偽不明の情報が広がり、それが消えない(デジタルタトゥー)。最近は発信をした人が裁判で負けているが、まだまだ止みそうにない。
二つ目は「正義感」。バッシングの根底には「正義」がある。もう少し丁寧に言うと「歪んだ正義」が。「悪意」の人もいるが、多かれ少なかれ「間違った人や悪い人を罰する」という「大義」が自分にはあると思っている。その判断の根拠も基準も十分には示さず「レッテル」が貼られる。
「匿名性」と「正義感」は戦争遂行に欠かせない要素だと思う。牧師の桑原重夫さんの著書「天皇制と宗教批判」(社会評論社一九八六年)の中にこんなことが書かれていた。当時桑原さんが勤めていた工場にTという先輩がいた。農家の長男で温厚、後輩の面倒見も良い、好人物だった。その人が現役兵として中国戦線に従軍した。戦後、復員して元の職場に復帰、人柄や仕事ぶりは以前のままだった。しかし、時にTさんが戦場での「自慢話」をするので驚いたという。「『どこそこで、どんな掠奪をやった。どこの村では何人の女の人をどうした。ある所では、中国人の老人を試し切りした』と言うことをさも当たり前のように話すのである。いや、そんな時のT君が、いちばんいきいきとしていた。しかし、自分の村に帰れば、このT君も善悪のわきまえはちゃんとあって、決して悪い人ではない。そこにある大きなギャップについて、ある時T君に尋ねたことがあった。すると『国が保障してくれているのだから、どうということはない』という答えが返ってきた。『一生しがない百姓のせがれとして生きていかねばらない自分にとって、あの時ほど満足感を味わったことはない』と彼は言う。この彼にとって、戦後民主主義というのは、何とも退屈な生活を強いられる制度であった」。
戦争となれば個人は消え匿名化できる。すべてを「国が保障してくれる」から「個人の責任」は霧散する。「大東亜共栄圏」など国が扇動する「大義(正義)」が与えられ「自分は正しいことをしている」「相手は鬼畜であって成敗の対象」ということになる。自らの存在意義に不安を抱える人ほど「満足感」を得ることになる。これはネット上で多かれ少なかれ起こっている現象に通じているのでは。「所詮ネットの出来事に過ぎない。奥田は大げさすぎる」と思われる方もおられるだろう。そうならばその方が良い。心配症の僕はネットの出来事が「戦争の種」にならないことを祈るだけだ。