2024/10/06
10/6巻頭言「ダイバーシティとヨコの成長」
「ダイバーシティ」という言葉を耳にする。カタカナ言葉が増えて訳が解らない。「多様性」という意味だという。ならそう言って欲しい。「多様性」は「より良い社会」を目指す上で重要。しかし、そんな当たり前のことを声高に言わねばならないのは現実が「多様性」どころか「排除」や「差別」に満ちているからだと思う。ヘイトスピーチ、困窮者、LGBTQなどへの攻撃。世界では戦争が拡大し続けている。究極の「反多様性」、それが戦争である。しかし、世の中は自分と同じ考え方、感じ方、生き方、環境の人ばかりではなく、多種多様な人が存在する。そんな当たり前のことを前提としない時代になっている。「ダイバーシティ(多様性)」は、他者を認めない世界に対するカウンターカルチャーでもある。
自分と同じような考えの人と一緒にいると安心できる。緊張感なく付き合えるので居心地が良い。これは悪いことではない。「なかま」とはそういうものだ。だが「自分」の延長線上にしか「社会」や「世界」を見ることが出来ない人、つまり「多様な他者」と出会わない人は大きなリスクを負うことになる。自分だけの世界に生きている人がその世界で絶望すると「お先真っ暗闇、もうダメ、自分の生きる場所は残っていない」と思う。しかし、世界はそんなに小さくはない。自分が見ているのは世界のごく一部に過ぎないのだ。それ以外にも世界は存在する。それを教えてくれるのが「多様な他者」。「真っ暗って?そうかな?こっちの世界はまだ明るいよ」と他者が見ている別の世界が存在する。「なんだ別の世界があるじゃねえか」と思えたらなんとかなる。「多様な他者」との出会いが増えるほど世界は広がり、ひとつの世界で絶望しても別の世界で生きることが出来る。
しかし「多様な他者」は僕にとっては「異質な他者」でもある。最初は良く解らず戸惑う。解らないことに人は恐怖を覚えるからだ。時には紛争も起こる。しかし、そういう「異質で多様な他者」と出会いが無ければ人はいつまでも自分の狭い世界に留まり続け、世界は広がらず「狭い自分(世界)」を超えることは出来なくなる。インターネット検索は便利なツール。しかし、自分の興味関心を超えることは難しい。一度検索するとご丁寧に関連記事が自動的に届けられる。増々「自分だけ」の世界に留まる。これは危ない。狭い知識が増えても人が「賢く」ならない。真の「賢さ」は他者への開かれていなければならない。だから「ダイバーシティ・多様性」が必要なのだ。
人は自分の学歴、地位、収入などを伸ばすことに努力する。「タテの成長」である。しかし、それだけでいいか。「ヨコの成長」が必要。つまり「異質で多様な他者」と出会うこと。この「ヨコ展開」が生きやすさを与える。多様性を欠いた「自分だけ」の行きつく先は「絶望」か「暴力」だ。戦争は自分だけの成れの果てであり、自分を疑うわず「正義だ」と主張する人が相手を殲滅する。「ダイバーシティ・多様性」は偏狭な世界観からの僕を解放する。「こうでなければならない」と自分を責めてきた。しかし「多様性」に身を置くことでどんな僕でも生きていける。世界はもっと多様でいい。