2024/11/10
11/10巻頭言「挨拶の効用」
先日、韓国の困窮者支援を担当する「自活院」という政府組織と日本の「生活困窮者自立支援全国ネットワーク」との間で「連携協定」の調印式に参加するために韓国に行った。三十年ぶりの韓国だった。
言葉は全くわからない。スマホのソフトで瞬時に韓国語から日本語に翻訳するものがあるが看板や文章ならそれも便利だが会話となると使えない。私が話せる韓国語は「アンニョンハセヨ(こんにちは)」と「カムサハムニダ(ありがとう)」のみ。
韓国側の代表がいろいろと話しかけてくださるのだが、全くわからない。だから、適当に「ネ(はい)」と相槌を打ち、間合いを見て「カムサハムニダ」と答える。相手はニコニコとしてくださり、なんとなくその場をしのぐ。
「挨拶」には、具体的な意味はない。「こんにちは」を漢字で書くと「今日は」。「こんにちは」は、本来、このあとに続く言葉が省略されてできた挨拶。実際に、室町時代に作られた狂言の台詞集『秀句傘(しゅうくがらかさ)』には、「こんにちは、一しほ御きげんがようござる(きょうは一段とご機嫌がいいですね)」という文言が、あいさつとして載っている。どうやら、当時は、相手に合わせた文言をその場で作るのが普通で、今のように、ひとことで言えるあいさつの言葉はなかったという。しかし、江戸時代の後期には「こんにちは」が、あいさつの言葉となる。「こんにちは」単体があいさつとして使われるようになったようだ。
挨拶がこのように「単体使用化」されたのは救いだと思う。実際、今回の韓国訪問にしても、それ自体に深い意味のない「単体」としての挨拶で三日間乗り越えた。韓国政府機関の連携協定もその後の視察、さらに夜の懇親会においても私が口にしたのは「アンニョンハセヨ」と「カムサハムニダ」のみ。
人との関係をうまく作ることが苦手な人。何をどう言っていいのかわからずみんなの輪に入れない人。実は、こう見えても私は相当の人見知りで気が弱い。見ず知らずの人と一緒に居るが苦手である。そんな時、ともかく「こんにちは」「ありがとう」で乗り越える。さすがに深い関係は構築できずとも悪いことにはならず、その場を乗り越えることができる。
イエスは復活した後、弟子たちに現われる場面で「シャローム」と語り始めた。このことばには「平和」という意味があるが、挨拶としては「こんちには」に相当する。自分を裏切り逃げた弟子との再会。通常、なんと言っていいのかわからない場面。だから、ともかく「こんにちは」と語りはじめる。 全体の流れを考えると「相当違和感」がある場面だが、それでなんとか乗り切る。
挨拶は、神様がくれたプレゼント。ともかく、苦手な場面もこれで乗り越えよう。ともかく挨拶だけでもする。それでいいと思う。