2024/11/24
11/24巻頭言「希望のまちは誰のまちか」
こんな質問をして下さった方がおられました。「支援者です。希望のまちは、お金はあるが孤独な人を包摂できるでしょうか。生活困窮者の話が中心のように聞こえます。最近はタワマンで孤独死するような人がめずらしくありません」。大切な質問をしてくださったと感謝します。不十分ですがお答えしたいと思います。
希望のまちは確かに「困窮者の場所」だと考えています。しかし注意していただきたいのは抱樸における「困窮」の捉え方です。生きづらさには「経済的困窮(ハウスレス)」と共に「社会的孤立(ホームレス)」があります。特に後者は「お金の多寡(多い少ない)」とは関係なく人を苦しめます。路上で暮らしておられた方がアパートに入居され就職も出来ました。「これで安心ですね」と声をかけると「俺の最期は誰が看取ってくれるか」と仰る。そこには「孤立」の現実がありました。
希望のまちは、経済的には問題ないが「ひとりぼっち」の人を包摂する場所となります。そもそも経済的困窮が解消できても孤立のままであれば問題は解消されていないと私たちは考えてきました。
単身世帯が全世帯の四割に近づいた現代社会において「社会的孤立」は一層深刻になっています。また、家族がいたとしても「家族ごと孤立」というケースも増えています。いまだに「身内の責任」が強調されますがそれでは難しい人が今後一層増えることになります。
だから希望のまちは、「なんちゃって家族」を目指します。十数年前、抱樸では「地域互助会」を発足させました。出会った方々の多くが「葬儀に身内が来ない(こられない)」状況にありました。だから「赤の他人が葬儀をする仕組み」を作りましたが、希望のまちは、この実践をより広範な地域で実践するものであり、今後の日本社会における「モデル」となると思っています。
「身寄りなし」は、孤立問題のみならず社会問題にもなっています。例えば「大家の七割が単身高齢者にアパートを貸したくない」と考えています。これらは「お金があっても困難」な現実を示しています。
だから希望のまちは「なんちゃって家族」の拠点となります。どんな状況に置かれていたとしても「このまち」に来たら「なんとかなる」、そんなまちを創ります。質問の中にあった「お金はあるが孤独な人」あるいは「タワマンで孤独死するような人」は「社会的孤立」状態にあるわけですから、まさに希望のまちの対象者であると言えます。
さらに経済的困窮にも社会的孤立にも縁の無い人もいます。私自身、その一人だと思います。そんな私も「抱樸地域互助会」には加入しています。「困っている」からではありません。共に生きる人が欲しいからです。人と人とが共に生きる時、少々煩わしことも起こりますが、それ以上に楽しいことになる。助けられたり、助けたり、そういう同時的で相互的である場所。それが希望のまちだと思います。「理由などなくそこにいていい場所」。そんな「弱目的的」な場所が今の社会に欠けていると思います。「何気ない日常」を共に過ごす。希望のまちはそんな場所となります。お答えになったでしょうか。