2024/12/29
12/29巻頭言「内に宿す―2024年クリスマスメッセージ」
今の世界は病んでいる。「自分病」に罹患している。この病にかかると「自分だけ良ければよい」という思いに支配される。重症化すると「自国防衛」などと言い戦争を肯定するようになる。「自分だけ」、そんな「孤独な人」によって戦争は遂行されるのだ。
日々、戦争や虐殺のニュースを目にする。他人事のようにそれを眺める自分がいる。私もまた感染していることに気付く。クリスマスは「自分病」を患う私たちを癒す時。ヨハネ福音書は、クリスマスを「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と表現した。私の中に誰かが住み始める。「あなたをひとりにしない」との神の意思が表明される日。それがクリスマスだと。「宿す」ことで身勝手な生き方が不可能となる。これは「恵み」である。
しかし、それは「安価な恵み」ではない。イエス・キリストによってもたらされた故に「高価な恵み」に他ならない。なぜならば、その恵みには「十字架」が伴うからだ。イエスの十字架が他者の十字架であったように私たちも他者の十字架を負うことになる。「宿す」とはそういうことなのだ。
作家の灰谷健次郎は小説「太陽の子」の中で「痛み」について書いている。「いい人ほど、勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで、決まるのやないやろか」。人と動物の違いは「他人の痛みを自分の痛みのように感じる」ことにある。痛みは人であることの証し。私は問われている。「お前は本当に人間か」と。「自分の他にどれだけ自分以外の人間が住んでいるか」。「宿す」ことこそが人間であり続けることなのだ。
「出会わない方が楽」。誘いの声が聞こえる。だが、イエスは「狭い門から入れ、細い道を行け」と私たちを励ます。「宿すこと」を拒絶する世界。それは今始まったことでもない。ルカ福音書は、イエスの誕生を次のように描く。「マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかった」。生まれた子どもには場所はなかった。ただ「余地がない」は正確ではない。面積の問題ではない。「宿す人」がいなかったのだ。2000年前も、今も、変わらない病いの現実。
今日はクリスマス。神の子は「私を宿してくれるか」と私に問う。いつまで「余地はない」と拒み続けるのか。にも拘らず救い主は誕生した。「私たちのうちに宿った」と聖書は宣言する。救い主はこじ開けるように私の中に宿ったのだ。その事実により私は動物ではなく人となった。高価な恵みに与る者は、他者のために苦しむことを選ぶことが出来る。
2025年は、人として他人の痛みを自分の痛みのように感じる年にしたい。それは、つらく、苦しい道となる。しかし、その道こそが真に豊かでやさしく、いのちに至る道なのだ。
クリスマスおめでとう。