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2018/01/14

新年礼拝宣教 「『犬にやるな』と言われていたのは、あなたがたの聴いているとこでろである」 その②

 3、イエスのことばをどう読むか  さて、これからが本題となるが、マタイによる福音書七章六節においてイエスは、次のようなことを言っている。「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」。このことばからするとイエスもまた犬を悪いものとして表現している。だが、さらに問題なのは、「聖なるものを犬にやるな」と言う時の「犬」は、実際の「犬」の事を指しているのではなく、比喩として使われているということにある。当時、犬は「異邦人」を意味していた。また、豚は「異教徒」を。この言葉は、聖なるもの、すなわち、神の恵みをユダヤ人以外の、「そんな連中」に与えてはいけないという事を意味していたのだ。これは明確な差別である。
繰り返すが「聖なるもの」とは、神の言葉や福音、ユダヤ人に贈られた神の救済の約束を意味する。「神の民であるユダヤ人だけに準備された聖なるもの、すなわち、神の言葉であり、神の福音を異邦人や異教徒、つまり犬や豚みたいな連中に与えてはいけない。連中は、喜ぶどころか、反対に襲ってくるに違いない」という分断と差別を扇動する言葉なのだ。
しかし、これは困る。護教的な私などは、これをイエスが言ったとしたらマジに困る。イエスが、こんなことを言ったらダメだと思う。なぜならば、これらの言葉は、まさに差別排外主義そのものであるからだ。現在の日本社会では、ヘイトスピーチが収まらない。「在特会」という差別団体が先導し、分断を煽っている。彼らの主張をイエスが後押しすることは、断じて許せない。
2017年12月29日に放送されたTBSとRKBの共同制作ラジオ「スクラッチ-線を引く人々」という番組があった。私も後半少々登場した。これは、「相模原事件」に関す番組だった。「障がい者は不幸を造り出すことしかできない」と犯人である植松容疑者は犯行に臨んだ。彼は、重い障がいがある人々を「心失者」、つまり、「心を失っている人」と言い切り、人間ではないとして殺害に及んだ。「心失者」とは、コミュニケーションができない人だと彼は言う。実際、犯行時には、名前を尋ね答えられない人だけ殺した。この番組を制作した、RKB放送の神戸記者の子どもさんは重い自閉症で話せない。植松容疑者からすれば殺す対象である。神戸記者は、植松容疑者と手紙のやり取りの後、面会することになった。面会を受けた時の手紙には、「あなたは、まだ子どもを生かしているのか」と書かれていたという。「スクラッチ」とは、「がりがりと線を引く」という意味。今回の事件は、「障がい者」と「健常者」の間に、「意味のあるいのち」と「意味の無いいのち」という分断線をガリガリと引いた。分断線は、さらに「生産性のある人」と「生産性の無い人」、「年より」と「若者」、「正規雇用」と「非正規雇用」へと広がっている。そのような日本社会において、あのイエスのこのことばをどのように読めばよいのか。

つづく

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