2018/01/12
新年礼拝宣教 「『犬にやるな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」 その④
4、イエス自身が犬だった。
やはり聖書に書かれている言葉であるから、なるべく「排除」することは避けたい。やはり、イエスが語られたという前提で考えたい。「犬」や「豚」が異邦人などと差別する言葉であって、特に当時のユダヤ人(教)指導者が使っていた「ヘイト(憎悪)」を示す言葉であることは自明の事柄である。ただしかし、そうであるならば、イエスご自身があの「犬呼ばわり」されていたのではないか。なぜならば、イエス自身がユダヤ社会に対して明確に否と言っていった。例えば当時のユダヤ教は、「安息日には何もしてはならない」と教えていた。だから、どんなに困った人がいても「助けない」ということになった。これに対してイエスは、「安息日にいのちを助けるのと、見殺しにするのとどっちが正しいかと公然と批判した。イエスは反逆する者だった。だから、イエスご自身が「犬呼ばわりされる側」にいた。だから、イエスがこんなことを言うはずがないのだ。
イエス・キリストは「ヘイト(憎悪)」が向けられる矛先であったと思う。つまり、イエスご自身こそが「犬扱いされていた」のではないか。イエスもまた「汚れた罪人」として「犬呼ばわりされていた」のだと思う。イエスが罪人としての最期を十字架で迎えるという結末を見てもそれは言えなくはない。
マタイによる福音書9章10節には、次のような場面がある。「それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた」。イエスは、罪人たちと食事をしていたのだ。ユダヤ人(教)指導者たちが普段「罪人だ」として「ヘイト(憎悪)」と「差別」の対象としてきた人々をイエスは共に食事の席についていた。これは、イエスも「同類」とみなされ「排除」される原因となった。
また、マタイによる福音書11章19節では、「また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う」とイエス自らが語っている。イエスは「食をむさぼる者であり、大酒のみで、取税人や罪人の一味」だったのだ。ここに「あの犬野郎」という言葉が加わっても何ら違和感はない。さらに、マタイによる福音書8章20節では、イエスが自らの暮らしぶりを「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と語っている。実際に暮らしぶりにおいてもイエスは、「のら犬」のような暮らしを続けておられたのだ。
これらの事を踏まえると、「聖なるものを犬にやるな」という言葉は、イエス自身の言葉と言うよりも、ユダヤ人(教)指導者から「イエスが日ごろから受けていた攻撃の言葉」だったのだと思う。なぜならば、それまで限られた人々、まさにユダヤ人(教)指導者だけが特権的に語ってきた「神の国」についての教えや「父なる神」のことを「どこの馬の骨かわからない」イエスが語ったのだ。しかも、その語った対象が、これまた、これまで当時のユダヤ社会では「罪人」や「資格なき者」とされていた人々であったのだ。 つづく